三田キャンパスシーンスナップ/大学は趣味のカルチャーセンターであって構わない...それ以上の何がある?



学習メディアの違いはあれ、高校卒業資格とまともな高卒レベルの実際の学力とがあれば、基本的には誰でも大学に入学でき、また卒業もできるのが現在のニッポンを初めとした先進国の環境である。 僕は偏差値レベルで60前後の都立高校を卒業後、某ミッション系大学に合格して講義にも真面目に出ていましたが、一時期、別の大学の他学部通信教育プログラムに編入して、そちらで学生をしていました。 現在僕は古巣の大学の通学部生へと復学して、春ですので、優柔不断な性格が災いして、どの授業を取るかぎりぎりまで迷いながら、各講座に顔を出したりしています。



城南山の手に一族の源流を求められる僕にとっては、あらゆる意味である種の懐かしさや気持ちよさが感じられるシーンでもあります。とはいっても、うちの一族は兄弟での分割相続や終戦後に旧特権層に課された重税のために元々あった本宅を手放し、分譲された世田谷の山の手側などに住んでいたりします。本家本流は音大声楽科の教授も務めるオペラ歌手だった(本来はさほどお金にはならない名誉職、という意味)というのに高級住宅街に瀟洒な西洋住宅を構え、英国製TANNOYウェストミンスターというような、国産のハイオーナーサルーンカーよりも高価なオーディオスピーカーであるとか一台百万円以上もした(故人なき後でも元気に現役で高音質な、懐かしい垂直ローディング方式による)最初のフルサイズコンポーネント用コンパクトディスクプレーヤーを気楽に購入しては優雅なレコードライフを楽しみ、流麗なデザインでマニア好みな欧米製高級車をコンクリート製の屋根シャッター付き半地下ガレージに停め、当然のことのようにスタインウェイのグランドピアノが輸入大型フロアスピーカーのある彼の家の広間にさりげなく置かれていたりして、粋でハイスタイルなライフスタイルを過ごしたりしていた故人について考えてみると、彼の場合はオペラ歌手という職業が収益性の高いビジネスだったというのではなく(日本での声楽家という職種は、公演のたびに持ち出しが多かったりして利益にならない職種の代表格のひとつである)、相続によって多くの資産を受け取ったというほうが正しいようです(ちなみに彼や僕の祖父の親の代以前は近代に入るとキリスト教に目覚め、宣教師をしていた人である。有名な財界人として近代産業を興し一代で財を成したというほうが明治以後には上流的ではあったのだけれど、商家系華族だったような家系の人は屋敷こそ宮殿並みだったものの非常に現実的でビジネスマン然としていたという)。旧資産というものもいつまでも残るというものでもない。ちょっと話が若干横にそれてしまったが、たった一つのキャンパスしか知らないうちはインテリとしては弱いかも知れない・・・。


Mita campus style

(FLEX-J original GIF animation movie:720KB)





デパートやステーションビルの立ち並ぶのんびりとした城北下町の商業区域である池袋界隈に本部キャンパスのある某ミッション系の学生にとっては、城南エリアの閑静な高級住宅街ブロックに建つ慶應義塾大学の三田キャンパスでのカレッジライフシーンは、確かに、きわめて興味深い世界だったりするものである。

東京は、新宿を境に北へ行くほど下町色が強まり(ただし文京区は、渋谷や三田界隈と並ぶ日本有数の高級住宅街ブロック)、南へ行くほど高級住宅街、戦前の上流階級が根を下ろし、独自のハイ・ソサエティ文化の発展を見てきた世界が垣間見られる(ただし都内で京浜急行線よりも下のエリアは、いわゆる関西における阪神線よりも下のゾーンに相応する)。

慶応大三田キャンパス構内のゴシック様式の煉瓦建築は、イギリスの公立小学校みたいな立教大学一号館とは違い、堂々「重要文化財」の認定を受けている。

知性の香りの漂う三田キャンパスのお膝元、田町の駅前もまた、典型的なまでに涼しげなオフィスビルゾーンであり、三田綱坂近隣にはイタリアやオーストラリアなどの大使館が軒を連ね、さらには旧財閥の屋敷跡などが威容を誇っていたりしていて、教室の窓から見える東京タワーや港区一帯の風景にもかつて感じたことのない、なかなかにクールな世界が垣間見られたりして、気分もソー・グッド。

慶応では学内伝統的に、洋楽の知識に通じていることが粋なことであるとされるためか、学生にものびのびとした音楽マニアがとても多そうな感じだ。

さて、慶応義塾大学では、三田のほかに東横線沿線に日吉キャンパスがあり、通信教育制プログラムの四年制課程の在学者であればいつでも自由に慶應が誇るメディアセンターに入館して、そこに並ぶ(ビデオソフトを含む)莫大な量の文献を利用できる。さらに大学生協の組合員になれば有名な生活互助会的割安物販サービス(>>>立教大学のようなミッション校では概して生協のような市民型組織は未発達なのである)を受けることもできる。

他大学の卒業生は全カリ(=一般教養課程)免除で三年次に編入可能なので、卒業しても大学生をやめたくないきみは一度トライしてみよう。通信課程で大学を卒業すると通学課程とまったく同じ大卒者条件が得られるわけだし、試験は週末にスクーリングはお盆などの休暇シーズンに行われるので会社員でも受講可能。教員免許を取るために通信制で学ぶというのもなかなかおいしい話だ。

さて、ムービー中で風鈴とイギリス風の吹き流しがバルコニーに下がっているハイテックなビルは、三田綱坂ゾーンにあるオーストラリア大使館。


さて、通学制プログラム通信教育制プログラムとでは、何が同じで何が異なるのか。

基本的には大学は大学なので、内容的には何も変わりません。

みんなが嫌いな第二外国語も、教養科目も、専門科目もしっかりと義務づけられていて、当然卒業論文も、きっちり提出しなければならない。

通学制プログラムであれ通信教育制プログラムであれ、何のための勉強だかわからない高校までのカリキュラムとは全く違う、学生の好みで行ける世界なので、教養課程でも専門課程でもストレスがたまるということはなく、ヒアリングが苦手な学生が外国人講師の講座でてんやわんやするということはあれ、とりあえずほとんどの講師はわかる話をしてくれますし、通信教育プログラムのリーディング講座でマイクを持った講師の先生の講義にあたるのは各大学で独自編纂しているテキストで、こちらも読めばわかるようになっている。もちろん、いくら通信教育プログラムの学生とはいえ、全単位のうちの最低25パーセント(通学プログラムの一年間分)はキャンパスで授業を受けることが義務づけられており、また、慶應義塾大学ではさらに希望制で最終学年の授業を通年で通学コースの授業から科目を選んで単位を取得できる。学位の効力は通学制プログラムのものと通信教育制プログラムのものとで同等とみなされ、どちらのコースを卒業しても正式の大学学部卒者と認定されます。

それぞれのコースにそれぞれらしいメリットがあり、またデメリットもある。

通学制プログラムでは、年間を通した教室講座であり、講師の人が自作したプリントをテキストにできやすいので教養課程の授業ではかなりアップトゥデートで知的トレンドにも即応した授業内容を取り入れられやすかったりする。その分、運悪く授業に出られなかったりして配布物を受け取れなかったりすると半年分2単位が無駄になってしまいがちというあたりは短所かも知れない。また、スケジュールがきっちりと決められているので指定された通りの学習をしていれば、基本的には四年間で時間のロスなく卒業することが可能になります。たいへんだったり、難しかったりすることは何もありません。ただし過密スケジュールになりがちな体力勝負でもあります。とりわけ文学部の外国文学系コースなどの学部生でバイリンガルではない人は、結構大変なノルマに追われたりします。予復習をしなくても板書さえしっかりとっていれば何とかなることの多い社会科学系のコースとは対照的です。

一方、通信教育制プログラムは、通学制プログラムで講師が話す内容のすべてがそれぞれ一冊以上のテキストになっていて、自宅などでとにかくテキストをきちんとまじめに読んでさえいれば年間を通して休まず授業に出たことと一緒になります。レポートを提出すると、指定された日に本校舎教室や地方会場を始めとした試験場で単位認定のためのテストを受けることができ、合格点をとれば単位がもらえます。卒業論文のテーマを決めて、教職課程をとった人はそちらのほうもやっつけて、スクーリングと呼ばれる通学講座でも必要な数の単位を取れば、後は卒業式で卒業学位をいただいて無事、プログラムの修了です。通信教育制プログラムへの入学の場面ではたいていの場合入試は課されず、アメリカの大学と同様に調査書やエッセイなど必要書類を提出すればそれだけで入学が許可されます。学習時間が不安定になりがちである一面、学費が割安でもあるので、すでにどこかの大学を出ていて就職している人が別分野の学位を取得したいような場面では、通信教育制プログラムは有効に機能するでしょう。

慶応義塾大学の通信教育プログラムを体験済という観点から言えることは、通信教育プログラムのテキスト内容は意外なほど固くてマニアックにつくられている・・・つまり慶応義塾大学のそれの場合はきわめてハイレベルだったということがいえます。知的な部分での歯ごたえがあってなかなか悪くないコースでした。アメリカやイギリスではインターネットなどと直結して、むしろ通信教育制プログラムで学習した方が立体的で中身のある学習が可能となるという話も聞かれます。それに加えて副読本を自分でいろいろと読んでいく必要があります。さらには、講師の人はたいていが通学制プログラムでの指導と兼務しているので、授業レベルでも通学制プログラムの人と全く同じレベルの学生であることが要求されます。それでも自分が選んだスクーリング授業の単位で落としたものはなかったので、何とかなるでしょう。ただしテキスト授業のほうではなかなかうまく計画どおりにはかどらず、時間を無駄にすることがもったいなく思えてきたので、再び古巣の通学制プログラムへと復学したわけです。

慶應義塾大学の通信教育制プログラムは、実は一頃の某ミッション大学あたりではセントポール既卒者の多い意外な穴場としてもよく知られていたようです。

実際に僕は、夏期の三田キャンパスの授業期間に、面識のあった陽気なノリのセントポール既卒者を短い間に何人か目撃しているのだった。

すでに就職をしたり家業を継いでいるはずの彼らがいったい何を狙って三田校舎に集結していたのか・・・となれば、そう多くの場合彼らの目的は、他大学既卒者特典で全カリ(一般教養)免除の三年次編入を果たしてそのまま慶応の学位(慶応では通学制と通信制の区分が記されない共通の学位が、通学部の学生と一緒の卒業式で授与される)を手にして、それから彼らが目指しているのはもちろん、サラリーマン生活に人生を捧げている向き以外では、当然のこととして通学制の慶応大学院への無理のない進学実現というわけなのである。

そのために彼らは、一般の校舎授業や最終学年で認められる一年間を通学部の学生に混じって過ごす通年スクーリングなどにより、卒論指導で慶応閥の教授との間に面識を作っておいて、立教大学の大学院が苦手とする分野を中心としていつのまにやら慶応閥になりきりながら大学院から研究者へと至る道を歩もうとしていたりする訳なのだ。

立教既卒組に特徴的なガッツとしたたかさを遺憾なく三田キャンパスでまで眺めるにつけ、気ままに中途で転入学してしまった僕もさすがに「ここへは古巣を出てから来るべきだった・・・」と愕然とした思いが強く残ったのである。

「文学を学ぶ上で、外国文学作品はいつ読み始めて研究を始めても遅いということはないが、哲学はできるだけ若いうちに高度な理解をつくっておかなければ文化を統合する根本的思想、すなわち万事について本格的なことが何も語れない」と痛感していた僕は、外国文学購読から哲学・社会学研究への専攻変更のために大学を移っていた(注/某ミッション系大学の文学部には哲学科がないくらいに迷信的ですなわち近代哲学的な観点が一般教養レベルで止まっていたりするなど、つまり現代的な認識にも乏しく、まともな会話力寄りの語学試験もせずに入れているくせにいたずらな会話力を求めてくるなど見かけ上のテクニックばかりを追求、ゆえにお世辞にも人間研究のための文学部としてのレベルが高いとはいえない)のだが、実際僕が編入していた時期よりも以前からいまどきの通信教育制コースには大学既卒者の姿がとにかく多く、通学期間のキャンパス内もとにかく若かったのである。通学部と同格のマニアックな授業システムで単位を取得すれば、卒業する頃には確かに慶応卒らしい卒業生が生まれるという寸法だ。

大学既卒者に限らず、なかなか大学に受からずに落ち込んでいるような人の場合にも、とりあえず目指す大学が通学制プログラムにある場合には受験勉強は続けつつ、通信教育制プログラムへの入学を検討するのは良策だと思われる。大学がどういうものかがわかって的がしぼれれば、受験勉強上での無駄もなくなって、他大学の通学制プログラムの入試であってもおそらく受かることでしょう。


なお、ロンドン大学やアメリカの名門大学でも日本からの通信教育制プログラム履修生を募集しています。英語が万能だったら、日本にいて働きながらにして海外名門校の学位を取得でき、一気に海外法人のニューヨーク本社へスペシャリストとして栄転することも夢ではない。スクーリングは本国のほか、日本国内や近隣の香港あたりでも受けられるし、レポートや卒論は英文で提出して下さい。海外では大学院課程の通信教育プログラムも発達していますので、念のため。

それでは皆さん、グッドラック。

 


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