素朴な疑問

今日は平成九年六月二十日です。
科学が発達して工業製品が氾濫した二十世紀もその役割を終えたかのごとく、二十一世紀も目の前に迫った今世の中は世紀末の様相になってきました。
そしてこの人間の仕事を手伝ってくれたり、また人間に代わって仕事をしてくれるはずの工業製品に囲まれながら、私どもは毎日忙しい日々を送っています。
なぜこんなに忙しいのでしょうか?
もちろんみんな仕事に追われているからなのですが、こんなに便利になったはずなのにどうしてこんなに忙しいのでしょう?


あなたは仕事が好きですか?

「日本人って仕事が好きなんだよ。」?…。
皆さんの中で本当に仕事を楽しんでいる方は何人ぐらいおられるのでしょうか?
そして本当に自分が得意なことで飯を食っている人はどのくらいおいでなのでしょうか?
「好きなものこそ上手なれ」と申します。
本当に自分が好きなことをやっているときは、それこそ寝食を忘れ熱中してしまいますよね。
傍から見たら「あんなしんどいことようやるわ…」と思うような大変なことでも、「あいつアホとちゃうか?」と呆れられるようなことでも、「いゃあだ!はっずかしい…」と思われるようなことでも嬉々としてしている人がいますよね。
本来仕事というものはそういう物であったはずなのです。
そしてそういうときは仕事とは言わずに「お役目」とか「御用」とか言いました。
そうでしょ、「これ仕事だから。」って言うのと「これ御用だから。」っていうのは何となく響きが違いますよね。
いいえ、当の本人にとっては、それはすでに御用だのお役目だのなんかではなく、ただ単に『遊び』なのです。
本当に「日本人は仕事が好き」なんでしょうか?


みんな『天才』なのです。

他人はこのような仕事っぷりを見ると『天職』と言います。
たまにではありますが御自身でも「これが『天職』だ。」と感じている方もおいでです。
この『天職』を別の言葉で言ったら『天賦の才』、略して『天才』。
このような意味で人はみんなそれぞれの天才を持って生まれてきています。
ただその天才を自他ともに認めず活かすことができないシステムの中にいるだけなのです。
では今私どもが生きているシステムというのはどういうシステムなのかというと『食べるために働く』システムです。
もっと詳しく言うと、食べ物を買うためのお金をもらうために、嫌なことでも働かなければならない社会システムです。
ここにはふたつの過ちがあります。
まず、「自らが食べるものを作ることのできない、つまり自らの食べるものですら自給できない、他人に頼り切って恥じない社会システム」であること。
次に「『お金』という虚偽の価値が唯一絶対であると信じて疑わない、いや疑ってはいけないように洗脳された社会システム」であること。
このふたつの過ちのシステムが皆さんの『天才』を蔽い隠し人生を苦しくつまらないものにしているのです。
このふたつのあやまったシステムのために、皆さんは『食べるために働く』よく言えば経済戦士、悪く言えば「市民という名の奴隷」状態におかれているのです。


日本から「食べ物」が消える!

しかし今このふたつのシステムが制度疲労をおこし崩壊を始めています。
まず、世界的に緑が少なくなって環境保護運動が叫ばれています。
これを「砂漠化」という言葉で呼んでおり、乱開発による森林伐採ばかりが声高にさわがれていますがこの指摘は片手落ちです。
というのも世界的に農地が痩せこけて土が死んでいることを隠しているからなのです。
たとえば小麦、トウモロコシなどの戦略食物や、コーヒー、砂糖キビなどの換金作物ばがりが毎年作られるがために、土地が休むひまなく使われ土の養分がなくなってしまっています。
その養分をおぎなうために莫大な量の化学肥料が投入され、その刺激的な化学作用によりさらに土の中でせっせと養分を作ってくれている微生物が死にたえていくという悪循環なのです。
このため世界の戦略食物の増産はすでに頭打ちどころか実は低下の一途をたどっています。
この事実を隠すために昨年から中国の発展にともなう食料不足が宣伝され始めました。
中国の発展にかこつけて戦略食物の不足を合理化し、国債食糧資本(穀物メジャー)が来年ごろに起こす予定の全世界的な食料パニックについての責任転嫁をするためです。
そしてその戦略食物やその他嗜好品を金にまかせて世界からむさぼり、あげくに自らの食料自給率を三割以下に落としてしまったのが私たちの日本、そしてあなた方「愚かな市民」なのです。
日本では今「米余り」だと言われていますが、これは金にあかして輸入した戦略食物があってのこと。
きたる来年の食料パニックのときには今の食料のたった三割以下の量で全国民を養わねばならなくなるのです。
この時になって、あわてて今のような喰いちらし喰い捨ての贅沢な風潮を改めようと、米の一粒だに余るはずはありません。
当然食べ物の値段はあがり、各家庭のエンゲル係数、つまり給料に対する食料費の割合は今とは比べようもなくあがるでしょう。
その時皆さんは本当に『食べるためにのみ働く』奴隷となってしまうのです。


『お金』はすでに死んでいる。

でも「『お金』さえあれば高くても買えるじゃない!」という意見もあるようですが、これもすでに絶望的です。
もう「お金の価値」そのものが揺らぎ始めています。
戦後今まで、日本では驚異的な経済成長にともない失業などということはありませんでした。
つまり学校を出れば何がしらの職があったのです。
そして中卒より高卒、高卒より大卒のほうが楽に「お金」がたくさん貰える仕組みだったため、ほとんどの学生が「大卒という肩書」をもらうため大学を目指すという世の中となり、その需要に応じるために名ばかりの大学が乱立しました。
大学がふえれば当然企業は格差をつけます。
だからよい大学に入るためによい高校、よい中学、よい小学校、よい幼稚園?幼児教育?0才児教育?なるものまで現われる始末です。
しかしこれはすべて「お金」のために存在するものであり、かけがえのない『天才』を見つけ育んでゆく少年の時間を将来の「お金」のために売ってしまうことなのです。
確かに今までの時代ではよい大学を出れば一流企業に必ず入社できました。
それでも二十年の後に一流を保てた一流企業などなかったのですがね、国鉄しかり、石炭産業しかり、繊維産業しかり、そして今、証券金融、不動産業しかり。


こうして日本は貧乏になる。

しかし後の世に「平成大恐慌」と名づけられるこの平成九年六月現在、よい大学を出ても職があるとも限らなくなりました。
またせっかく一流企業に入社してやっと管理職になった方々もリストラの嵐がふいています。
しかも来年の四月にはもっと悲惨な状況になるでしょう。
というのは、もうすぐアメリカ・バブルが破裂するからなのです。
今国内金利は史上最低になっています。
つまり「銀行にいくら預けても利子が目クソか鼻クソほどしかつかない。」わけです。
まとまった「お金」は寝かせておくわけにはいかないので何かに投資して利子で稼ぎたいのですが、国内では株と土地は東京バブルの破裂でボロボロ。
その東京バブルに投資していた生命保険、銀行、農協金融など民間基金はすべて沈没。
大体「国内の『小金持ち』の『お金』、合わせて五十兆円を株に集めて『国際金融資本』に海外に持ちにげさせた』のが東京バブルの正体ですから、日本の民間にはもう「お金」はなく国民一人当たり五十万円の皆さんが損した「お金」は絶対に戻ってきません。


ニューヨーク株高値の正体

この五十兆円を元手に『国際金融資本』が帳場を開いたのがニューヨーク・バブルで、今度はアメリカの小金持ちから「お金」をかすめ取ろうという魂胆です。
さて今日本にあるまとまった「お金」は運用先を求めてニューヨーク株になだれ込みました。
国民年金基金、国保社保などの公的医療保険や郵便貯金簡易保険、生保資金などです。
本来国内の企業に貸して利息を取って運用するという性格の公的な「お金」までが国外に逃げだしたのは、この低金利を嫌ってということもありますが、みんなが景気がよくなってくると思えないので「お金」を借りてくれないからなのです。
さて、そうしてニューヨーク株に「お金」が注ぎこまれたときを狙って、開帳した胴元が手持ちの株を売り払って「お金」を回収します。
つまり東京バブルと同じように「お金」を持ち逃げするのです。
もちろん今度も注ぎ込んだ「お金」は戻ってはきません。
こうして日本はいよいよ貧乏になるときが刻一刻と近づいてきているのです。


私たちにはこんなに借金がある。

さてまた国内に目を向けます。
日本政府には国債、建設債、地方債、旧国鉄債務をはじめ諸々の赤字公団の累積債務などという皆さんからの借金があわせて約五百兆円あります。
これに加えて、金額的にはわずかですが国が戦闘機や対潜哨戒機などアメリカからローンで買ったものの支払いがあります。
これは国が国民に借りている「お金」で期限がきたものから債権を持っている人に「お金」を返さなければなりません。
またローンは毎年ちゃんと返していかなければなりません。
これはもちろんその年の税金から支払われることになっています。
さて税金ですが、知っての通り企業や個人の収入に応じての割合ですから、皆さんの景気がよければたくさん集まりますし景気が悪ければ少なくなるのは当たり前です。
東京バブルの時代には、実体のないカラ景気だったとはいえ税金という「お金」は非常にたくさん集まりました。
このとき大蔵省は国債などの借金を返すための「お金」をちゃんと貯金していたのですが、この平成不景気で税金が少なくなったので、なんと!使いこんでしまったのです。


 貸した金は、やったと思え。

さて借りた「お金」は返さにゃならぬ、さりとて財布にゃ金はなし。
なると誰しも考えることは、「貸した相手から取り立てよう!」ということ。
日本はアメリカの国債にあたる「財務証券」の大口のお客さんです。
この「財務証券」は銀行や生保などが引き受け手になっています。
つまり日本はアメリカに「お金」を貸し込んでいるのです。
この「財務証券」が何億ドル分に溜まっていますので、政府はこれを世界の証券市場で売り払って「お金」に変えて国の借金を返そうとするでしょう。
しかし今年平成9年の初旬、アメリカのルービン財務長官はある会合で「借りた金など返すつもりがない」ことを明言したそうです。
もちろんその時になっても直接このような言い方はするわけがなく、「日本は国際証券市場を混乱させようとしている。」という言い方をして、日本を世界の悪者にするようにするでしょう。
そうなると税収に合わせた予算編成をして、国家公務員、地方公務員の大幅なリストラを行ない、公共事業・福祉事業の大幅削減とともに消費税を25%以上に引き上げるしかありません。
なぜならすでにデフレ状態にあり法人の売り上げは伸びることはなく、また予算の大部分は人件費であるからです。
ただし、これを断行するとなると巨額の退職金と失業保険の支払い、そして『無駄な公共事業の抑制』は大量の失業者の発生と零細建設業者の倒産を招くでしょう。
また今回平成9年9月から始まった『医療費改正・患者自己負担額大幅アップ』なども、2年後には病院、医療業界の大量倒産を招くことになっても『基本的全額自己負担』になるはずです。
これができない限り『日本は破産』するからです。


お金の正体

しかしただひとつだけ裏技が残っています。
いくら『五百兆円の借金』と言えども要は「お札」の束にすぎません。
そして「お札」というのは単に紙切れに字と絵を印刷しただけのもので、その原価は確か一円何十銭です。
つまり日銀の輪転機で「お札」を刷りまくればよいのです。
しょせん「お札」や「硬貨」などには本当の値打ちなどありません。
単なる紙切れに銅やニッケルの金属片にすぎないのです。
私どもが「お札」を刷れば「ニセ札」ですが、日銀が「お札」を刷れば「お金」なのです。
「日銀が印刷した紙切れだけを『紙幣』と呼びますよ。
そして額面の千円、五千円、一万円それぞれの値段の『もの』といつでもどこでも交換できますよ。」という単なる約束事なのです。
「ニセ札」を作ったり使ったりすると罰せられるのはこの「約束事」を破ったからなのです。
もっと言えば「一万円札」のうち九千九百九十八円何十銭分は「この『約束事』を守りますよ。」というの保証金なのです。
だから日銀はこの『約束事』を守るため、いつでも「お札」の量を調節して「お札」の値打ちが変わらないようにコントロールしています。
今世界には「お金」の値打ちをきめる確かなものはありません。
必要な「物」の量と「お金」の量のバランスだけがお互いの値打ちを決めています。


『インフレ』と『デフレ』。

だから「お金」の量が「物」の量を上まわったときには、「お金」の値打ちが下がった、もしくは「物」の値打ちが上がったと言い、これを『インフレーション(略してインフレ)』と呼びます。
またその反対に「お金」の量が「物」の量を下回ったときには、「お金」の値打ちが上がった、もしくは「物」の値打ちが下がったと言い、これを『デフレーション(略してデフレ)と呼びます。
だから「物」の量にあわせて「お金」の量を一定にしておかないと「物」の値段が高くなったり安くなったりして世の中が不安定になるのです。
このシステムを『変動相場制』とよんでいます。
その制度の安定のために日銀が「お金」の量をいつもコントロールして、「お金」の量が変わるような行為、すなわち「ニセ金」を印刷したり逆に「お金」を傷つけて使い物にならなくする行為は犯罪になっているのです。


出回った『お金もどき』

だから今まではなんとかコントロールが効いていたのですけれど、それは今までのこと。
今では大は『株』『証券』『貯金通帳、預金通帳』『年金手帳』から小は『商品券』『ビール券』『図書券』等々限定つきながら「お金」と同じように「物」に交換できる「お金もどき」の紙切れは元より、『先物取引』『デリバティブ』『裁定取引』『電子マネー』『プリペイド・カード』などという目に見えない「お金まがい」まで登場して、オリジナルの「お金」の量の何百倍何千倍の「お金もどき」「お金まがい」があふれかえっているのが現実です。
この「お金もどき」「お金まがい」がすべて「お金」や「物」に交換できるという点だけを見て「お金」と同じ働きをするものだと考えた場合、現在の世界経済はすでに「隠された『超インフレ』の時代」なのです。
「お金まがい」はもとより「お金もどき」も「お金」を道づれにしながら「お前はすでに死んでいる。(古いな!)」と言っていいほどにまったく値打ちがなくなっているのです。


現物にこそ価値がある。

さきほども言ったように、「お金」というものは「約束事」がなければそれ自体には何の価値もありません。
ただの一円何十銭の紙切れにすぎないのです。 こんなものはチリ紙にも使えません。
つまり私どもは知らず知らずのうちに『物』が絶対的な値打ちをもつ時代に生きているのです。
そしてまだ「お金はいつでもどこでも変わらない価値がある。」という嘘を信じ込まされて安穏と生きているのです。
気づいてください。
「お金はすでに死んでいる!」。
今はすでに『物』が絶対的な値打ちをもっている時代であるということに。
そしてその「物」というのはとどのつまりが『健康(医療)と衣類・食料と職業・住まいと安全(銃)』、つまり『イ2・ ショク2・ジュウ2』という最低限の「物」であることに。


貨幣経済の崩壊の後に。

ニューヨーク・バブルの崩壊で今の世界経済である『変動相場制』が破綻した後の経済の仕組みは、『穀物』『原油』『金(ゴールド)』『希少金属』などの「量」と「お金の量」をバランスさせる『バスケット式固定相場制』と呼ばれるものにすでに内定されているのです。
これらはすべて人の手で創りだすことができない、自然が与えてくれた今の工業社会に欠かすことのできない『資源』なのです。
世界を動かすエスタブリッシュメント(世界支配階層)と呼ばれる人々は「自然の大切さ」「お金の無意味さ」を十分にわかっています、少し歪んではいますがね。
少なくとも私たちよりはずっとずっとずっとよくわかっているのです。


だから今『農』なのです!

だから今『イ2・ ショク2・ジュウ2』のなかでも一番大切な『食』つまり『農』なのです。
「衣食足りて礼節を知る。」という言葉がありますが、少し欲張って最低『イ2・食・住』さえ自立すなわち「自らでアンヨできる」ようになっていれば、たとえ「お金」がその役割を終えて紙切れになろうとも「自分の好きなことをして生きてゆける」し、さらに「『イ2・食・住』をエサにされて、嫌なことをせざるを得なくなる。」という奴隷にならずにすむのです。
そのための『農』なのです。
農産物を「お金」に代えるための『農業』のことではありません。


今から起こること

もう一度言います。もうすぐニューヨーク・バブルが弾けてニューヨーク株に化けていた日本の公的 資金も会社の資金もは紙屑になります。
もちろん使える「お金」としては日本に戻りません。当然日本はドツボの不景気にはいり、一気に貧乏になります。
貧乏になると会社はバタバタとつぶれて失業者があふれます。
そうなると税金がはいらなくなり、ますます国に金はなくなります。
国に「お金」が無くなるということは、皆さんが国に貸している一人あたま五百万円の借金が返ってこなくなるのです。
そしてさきほど書きましたように、日本がほかの国に貸している「お金」は返ってきません。
取り立て手段をもっていない以上、『貸した者』より『借りた者』のほうが強いのです。
返してもらおうと思ったら、『貸した者』が頭を下げて『借りた者』が言う無理難題を訊かねばならないのです。
それでもたぶん返してもらえることはないでしょう。
となると、政府は国民から借りている「お金」を踏み倒すか、返しやすいようにして返すしか道はありません。
たぶん両方を一度に行なうでしょう。
このひとつが「金融機関の期間限定窓口停止」であり、もうひとつが「超インフレ政策」なのです。


借金のツケは超インフレでチャラに。

さきほどにも申しましたが「インフレ」は現物の値打ちが上がり「お金」の値打ちがなくなることです。
「お金」の値打ちがなくなれば物価も給料も上がることになります。
今日100円だったものが一週間後には1000円、一カ月後には10000円になるようなすごい「インフレ」を「超インフレ」と言います。
ということは皆さんの政府への貸し金つまり貯金や預金の実質は、一週間後には1/10、一カ月後には1/100になるということです。
国民一人当たり政府に貸している貸し金500万円は、一カ月後には5万円の値打ちしかなくなるということです。
つまり政府は実質5万円分返せばいいわけです。
このように物価が上がっていく間に、皆さんが預金や貯金を引き出せないようにするのです。
こうすれば「お金」がなくても借金が返せるのです。
早い話、借金がチャラになるということです。
しかし、もしあなたがその時に幸いにもまだ失業しないで給料をもらっていたとしましょう。
確かに給料は額面通りに払ってもらえるかもしれません。
でもすぐに物を買っておかないと次の給料日前には「お金」は紙屑になってしまうのです。
そして次の給料が物価にスライドして上がったとしても、ひと月経つ前に同じように紙屑になるというのが「超インフレ」という状態なのです。


日本が倒産する日。

このように「お金」の値打ちがなくなるということは日本国内だけのことではありません。
日本は『食糧』や『石油』、『鉱物』などの生活必需品をほとんど総て『輸入』に頼っています。
そしてこの『輸入品』の代金は、『輸入』した原料を優秀な製品にして輸出して稼いだ「お金」で買っているわけです。
つまり止まれば倒れる自転車操業ですね。
さて日本の「お金」つまり『円』の値打ちがなくなるわけですから『輸入品』の買値は高くなり『輸出品』の売値は安くなります。
つまり『輸入』しにくくなるということです。
もう一度考えてください。
日本は『生活必需品』を『輸入』に頼っているんですよ。
『輸出品』も『輸入』に頼っているんですよ。
優秀な『輸出品』も作りきれなくなるのです。
『輸出』ができなくなるということは自転車操業が破綻するということなのです。
「『貿易黒字』が減った!」などと喜んでいる場合ではありません。
『日本が倒産する』のです。


国家倒産とはこういうこと。

これが『食糧』、『天然資源』すなわち『石油』『鉱物』がなくなるということなんです。
『石油』がなくなるいとうことは『合成繊維』が作れないということです。
『石油』がなくなるということは『電気』がなくなるということです。
『電気』と『石油』がなくなるということは『農機具』がうごかないということです。
『ハウス栽培』ができなくなるということです。
これで『衣食住』のうち『衣』『食』が破綻しました。
あとは『住』です。
先の関西大震災では『ガス』『電気』『水道』といった、いわゆる『ライフ・ライン(生命線)』が寸断されました。
冷蔵庫やエアコンは効かず、物の煮炊きができず、ポンプが動かないので水は出ず、エレベーターは動かず地上の給水車から階段をバケツで水汲みし、水洗便所は使えないので糞尿は肥担桶をかついで階段で降ろしという生活になりました。
そしてそれは高層マンションの最上階という一等地に住んで『便利』で『文明的』な生活をおくっていたリッチ・マンの人ほど悲惨な状況に陥いるという皮肉を生んだのです。


「便利・簡単・気持ち良い」生活の罠

「『便利』で『文明的』な生活」というものが『ライフ・ライン(生命線)』という『人間の浅知恵』にいかに完全に頼りきって依存していたかをよく顕した出来事でした。
『ライフ・ライン』は『輸入』という点と『文化的な生活』という点を結ぶ線のことです。
線が切れた程度でもこれだけのことが起こったわけですから、『輸入』という点が消滅してしまったら 『住』も破滅するのです。
「ビルディング 電気なければ ただの箱」なのです。都会の生活は全てを『ライフ・ライン』に頼りきっています。
ビルだけではないのです。
『都市』そのものが「電気なければただの箱」なのです。
もし明るいうちに飛行機で羽田や伊丹、小牧などの都市空港に行く機会があれば、窓から街を眺めてみてください。
まるでマッチ箱を並べたような街並が見えるはずです。
河井は時々「焼夷弾を落としたらよく燃えるだろうなぁ」などと心の真底から思います。


『市民』という名の搾取者。

このようなマッチ箱の中に『ライフ・ライン』などという脆弱な命綱に真底甘えきった数百万の『市民』と名づけられた奴隷が住み、国内の農村や漁村だけでは飽きたらず、海外の貧しい国に豊かさを分け与えるどころか、知らずとはいえ『国際食糧資本』の『相互依存システム思想』に洗脳されて、その国の大切な『天然資源』や『食糧』を絞り取り、貧しい国を更に貧しくする手伝いをしています。
これを『搾取』と言わずして何を『搾取』と言うのでしょうか?
ある人に言わせると『共産主義』が世界で一番成功した国はこの日本だといいます。
そう、マルクスの言った『プロレタリアート(無産階級)』とは「子供以外に何も資本を持たぬ者」という意味でした。


『お金真理教』の信者たち。

戦後日本では『お金』が唯一の価値となり、総てのものが『お金』で量られるようになり、そして『お金』があれば、上手くいけば人の心さえ買える『金のもとでの平等』が約束された世の中になりました。
だから皆が『お金』に頼りきって『お金』を神のごとく敬い信仰し、『お金真理教』の信者になったのです。
『一万円札』という「原価一円何十銭の紙切れ」の「額面一万円」という数字との差額、「いつでもどこでも額面と同じ価値の『物』と交換いたします。」という「唯の約束」で、人の心までも買える時代になったのです。
だから皆はこの約束を信じて、紙切れを集めることに駆り立てられ、今では更に「原価さえない」『数字』を集めることに夢中になっています。
河井にはまるで子供がスナック菓子のおまけカードを集めているようにしか見えません。
そしてその無意味な数字と引き換えに自らの生活を支える『生産手段』を手放していったのです、『簡単』『便利』『気持ち良い』という誘蛾灯に魅かれ集まる虫のように。
先に言いましたように、もうすぐ日本経済は破綻し「唯の約束」は守られなくなります。
その時皆さんは「自分が本当はプロレタリアート、つまり奴隷であった。」ことに気づくことになります。
河井はこの文を書いている平成九年六月二十日から数えて最悪半年後、よく保って2年後にはそうなると確信していますので、非難を覚悟でこの文章を書いています。


神戸と新潟、ふたつの地震からの教訓。

『国際食糧資本』に餌を、『国際石油資本』に石油を与えてもらわなければ生きていけない本当の意味での無産階級、つまり奴隷におとしめられているというのに、係長だの部長だのという奴隷の階級を手にすることに汲々とし、自らの『ライフ・ライン』を支えている第一次産業に従事する人々を見下してそれが当たり前にしか思えないようなそんな連中は、一度神戸のように悲惨な体験をしなければ目が醒めないのだろうと思います。
いいや、あの神戸の被災者の人でも未だに気づかない人のほうが多いのですから、真底飢えることがないとわからないのが他人に依存しきった人間という動物の悲しい性なのかも知れません。
神戸の陰に隠れてあまり話題になりませんでしたが、神戸の後に新潟でやはり震度6を超える直下型地震が起こったのをご存じでしょうか?
被害地が農村だったので被害が少なかったので大きな記事にはならなかったのですが、なぜ農村だったら被害が少ないのでしょうか?
人口密度が多くても少なくても『ライフ・ライン』が途切れたことには変わりがないはずなのに。
この答えは新潟の被災者の方々はそのほとんどが第一種か第二種兼業農家で『食べる』という面では『ライフ・ライン』にあまり依存しておらず、また石油に替わる当座の燃料や生活に必要な電気にいたっても依存率が少なかったことにあります。
被災者の方々の自立の割合が大きかったので、神戸のような惨状にはならずに済んだのです。


これが『農』の本当の意味だ!

『お金』の約束が消滅し『お金』と『物』が交換できなくなったとき、それは日本全体の『ライフ・ライン』が途切れることを意味します。
そしてこの二つの震災は今後数年に起こる日本の経済破綻の際の極めて大切な教訓なのです。
これからの時代は、あなたの生活の中で『お金』もしくは『お金もどき』を仲立ちにした経済の割合が大きいほど苦しく不自由になってゆきます。
逆に『お金』『お金もどき』の割合が少なければ少ないほど楽に生きてゆくことができます。
最低限自らの食べるものだけはまず自分で作りまかない、食べるもの以外は自らの得意なことで他人様に喜んでいただき、先様の得意なことで返していただく。
今の第二種兼業農家のあり方から「金を儲ける」という考えを取ったものと考えてください。
自らの足りて余る物事で他人様の欠けて足りない物事を埋め合わさせていただく。
逆に他人様の足りて余るもので我身の欠けて足らざる物事を埋め合わせていただく。
そして自らの生活で最低限のこと、つまり『飢えることのない』程度の生活の余裕のために、全国民が『農』をする。
そう、これこそが今『農』の意味なのです。


『相互依存』から『相互補完』の関係へ。

戦後に育った私どもや、戦前でも街で生まれ育った皆さんにはしっくりこない現実感のない話と思えるかも知れませんが、少なくともこの日本の農村や漁村で日常的に『お金』が使われ始めたのは、意外なことに昭和三十年代からなのです。
それまではほとんどの生活経済は『物々交換』や『勤労と、物によるお礼』で成り立っており、それで十分だったのです。
この古くて新しい経済体制は、今まで『福祉』とか『揺り籠から墓場まで』とか『助け合い』などと言われていたような「自らの生活基盤まで他人様に甘えて任せてしまう」という『相互依存』関係ではありません。
「自らの生活基盤は自らの責任で行ない、余裕の部分をお互いに交換する」という『相互補完』の関係なのです。
この『相互補完』関係というのは、簡単に言うと「ウチでトマトが食べ切れないくらいできたから、せっかくできたのに腐らしたら『もったいない』から、奥さんとこで少しもらってくれませんか?」という近所付き合いと思っていただいて結構です。
少し大きな目で見れば、バブルの時代に日本の企業はものすごい勢いで生産設備に投資し、気がつけば「原料さえあれば」日本一国で世界の総ての日用製品を供給できるまでの生産能力を持つことになったことはあまり知られていない事実です。
そして今日本には『食糧』と『天然資源』以外の日用製品は有り余っています。
この有り余った日用製品を足りない国にもらっていただくのです。
この時大切なのは『一切の条件をつけず』もらっていただくことなのです。
決して『恵んだり、与えたり』という根性ではありません。
日本では使っていない『活かされていない可愛そうな物』を活かして使っていただくのです。
それでこそ『物が活きる』というものです。


 『ギブ&テイク』から『ギブ&ギブ』へ

『ギブ&テイク』ではなく『ギブ&ギブ』『与えるが先』の考え方が基本なのです。
少しでも『農』を始めた方ならおわかりになるはずです。
野菜や果物は、なりだしたらひとりでは食べきれないほど一度に実をつけます。
そして一度に熟れて一度に食べ頃を過ぎて腐って落ちてしまいます。
この「一度になって腐って落ちる。」ことが大切なのです。
一度に収穫しきれないほど実をつける。
収穫しても貯蔵できない、貯蔵しても劣化してしまう。
だから他人にあげても惜しくない、いや腐らせたら『もったいない』から「是非もらっていただきたい!」。
これが『相互補完』『与えるが先』を動かす気持ちなのです。
確かに人間が種をまいたから実が実ったのではありますが、それは人間が植えた『種』や『苗』を、『自然』が「『陽』と『土』と『水』」という力を使って育ててくれたのです。
そしてその作物は植えた人の手を離れ、『自然の一部』である自らの『命』の力と『大自然』の力で育ち、植えた人だけではなく『自然』の中に活きる生きとし生けるもの総てのために育って、あるいは虫を潤し、あるいは鳥や獣を潤し、そして植えた人にもその恵みを分け与えるのです。


自然が与えてくれる『暮らし』のかたち

「生みの親より育ての親」とも言うではありませんか?
ましてや人間は『種』や『苗』などの『いのち』をゼロから合成できないのです。
総ては『自然』からの預かりものにすぎません。
その意味ではみんなが言う『自給自足』は「みずから給いみずから足らす」ではなく「おのずから給わりみずからを足らす」であって、誤解を避けるために『天給自足』と言ったほうがより正しいかと思います。
人間は『自然』から一時お預かりして使わせていただいた『命』を再び『自然』にお返しをするという当たり前のことをしただけなのです。
『自然』はその在り有りて在り余る総てを無条件無利子で貸し与えてくれているのです。
これが『自然の型』なのです。
個人にせよ共同体にせよ村にせよ国にせよ、その「在り余り活かし使えぬ物事」を『もったいない』と思い、「足らず活かし使っていただける」者に『無条件』で提供し、みんなでその物事が『活きて役立つことを見て楽しむ』。
これが来たるべき経済崩壊の後に芽生えてくる『与えるが先』、「『天給自足』プラス『リサイクル』型」社会経済システムのよりどころです。
だから『農』なのです!


 人間は『無から有』は創れない。

『天然資源』も人間が『自然』から掘り出してきたものです。
それを人間が手を加えていろいろな工業原料または工業製品に形作りました。
手を加え自在になる割合が多くなるにつれて、人間は「その元をゼロから創れない」ことを忘れ傲慢になります。
確かに在るものに手を加え別の形なり性質にする『技』、これはすばらしいものです。
しかし肝心かなめの元のものがなければその『技』も活かすことはできません。
神戸にはそのような『技』を持った町工場や職人さんがたくさんおいでになりました。
しかし震災で原料が途絶えたとき、その『技』は活かことができたでしょうか?


 神戸震災の教訓。

ある大手自動車メーカーは、神戸の町工場に作ってもらっていた部品がなくなったので、ある期間自動車が作れなくなってしまいました。
「自動車が作れなければ売ることができない。
売ることができなければ『お金』がもらえない。
『お金』がもらえなければ従業員に給料が払えない。
給料が払えなければ自動車を作らず従業員は休ませればいい。
休ませた従業員に給料を払わないわけにはいかないから、働かない分だけ給料を減らす。
給料が少なくなったら従業員は困る。
なんで困るかというと、いつもの給料が必ずもらえるものとして生活設計しているから。
何もしないでも必ず出ていく『お金』の割合が多いから。
だから急に給料が少なくなったら食費を減らさざるを得なくなるから困る。」。
別に日本の社会構造にとっては新車が当分できようとできまいと、実際上困ることはない。
困るのはその自動車会社の従業員であって、その生活を新車の販売利益に依存して頼りきっているから、新車が売れなくなると食べられなくなって困るわけなのです。
この場合、その『技術』『技』も「そのメーカーの新車が売れる」ということに『依存』して、『自ら食べる物を作る』ことを犠牲にして生活を成り立たせていたから『困った』のです。
みんなが第二種兼業百姓だったら『困り方』が少なくて済んだのです。
給料をくれる『雇用者』、すなわち『ご主人様』に生活を『依存』する割合が少ないほど、皆さんの『奴隷度』は少ないわけです。
『奴隷度』はすなわち『依存度』のことです。
そして『依存度』が小さいほど皆さんは自由に生活することができるのです。
これも今度のふたつの震災が残した大切な教訓です。


『人間の智慧』という傲慢。

『天然資源』を加工する『技術』の話からそれてしまいましたね。
『天然資源』は人間が創りだすことはできず、『自然』から借りて使わせてもらっているだけだということを忘れてしまって、みんな「人間の知恵は万能である」という「工業システムの考え方」に染まってしまいました。
そして人間が本当に万能であるかのように想い、「『自然』に挑戦して勝つ」ことを『善し』としてしまいました。
それは即ち「『自然』を『不自然』にすることを『善し』」とする考えなのですが、みんな気づかないままに時の流れに添って流れてきたのです。
今、この「工業システム」の考え方、つまり「人間は万能である。」、もう少し厳密に言うと「人間は科学を万能に使いこなすことにより、『自然』に打ち勝ち支配することができる。」という考え方があさはかであったということがはっきり見えてきたのです。
人間も所詮は『自然』の一部であり、「『自然』というお釈迦様の手の上を飛び回って天狗になっている孫悟空だった」ことがわかってきたのです。
だから「工業システム」の考え方では今の行きづまった「社会経済システム」は自己崩壊するしかなく、次の新しい「社会システム」を産み出すことができないのです。


『人間の智慧』という傲慢。

新しい「社会システム」は『自然』により近い人間の行為である、『農』のシステムの発展、つまるところ「『天給自足』プラス『リサイクル』型」社会経済システムなのです。
もうすぐ経済崩壊を迎える日本は、まだ少しでも体力の残っている間に、今の「工業システム」の生産力、開発力すべてをふりしぼって、「『天給自足』プラス『リサイクル』型」社会経済システムに換骨奪胎してゆかねばなりません。
だから今、『農』なのです。
もうすぐ起こる日本の金融経済崩壊は、その渦中におられる方にとっては大変な苦痛でしょう。
そしてその渦に日本の社会経済システムが総て巻き込まれて連鎖崩壊して行きますので、総ての国民の皆さんが無傷では済みません。
今までの「工業システム」の考え方を嫌でも捨てて改めざるを得なくなります。
これは今までの生き方を、生活パターンを、考え方を180度変えることになりますから大変な混乱と苦しみを伴います。
しかしこれは次のシステムへの『産みの苦しみ』なのです。
もう引き返すことも避けて通ることもできません。
すでに十月十日は近づき陣痛は始まったのです。
これは皆さんお一人おひとりのことなのです。
政府が、社会が、会社がやってくれることではありません。
あなた方が頼りにして信頼という名で『依存』している総てのシステムは、「『お金』の信用」と「『工業システム』の考え方」に『依存』して存在していますから、金融経済が崩壊するとその存在基盤を失って連鎖崩壊します。


 これからの社会システム。

皆さんお一人おひとりがどうしても通過せねばならない、やらなければならないことなのです。
言いかえれば、今までの『依存』のツケ払いだと思ってくださっても結構です。
あなたが女性なら聞いたことがおありでしょう?
「『甘え』つまり『依存度』が強い女性ほど陣痛が強くお産が苦しい」ということを。
そして「不安の強い女性ほどお産が苦しい」ということも。
河井も含めてみんながもうすぐ未体験ゾーンに突入します。
誰もその先にどういう仕掛けが待っているのかわかりません。
「わからない」ということは「不安」なことです。
でも唯一わかっていることは「今までのやり方はもうすべて通用しない!」ということです。
そして私どもが頼ることが出来る唯一のものは、私どもを産み育て、陰ながら支えてくれていた『自然』でしかないということです。
私どもがよりどころにするものは『自然』しかなかったのです。
だから、今『農』なのです。


そして誕生のヨロコビをあなたと!

どんなことからでも良いのです。
皆さんお一人おひとりが、今までの『農』から遠ざかる生活の方向を改めて、少しでも早く『農』に近づいてくださることになれば、この出産は安産になってゆくでしょう。
だから、今『農』なのです。
そして出産の後、皆で嬰児の誕生のヨロコビを分かち合いましょう!
『与えるが先』、「『天給自足』プラス『リサイクル』型」社会経済システム」という嬰児を。
最後まで読んでくださってありがとうございました。


「なぜ今農なのか」に共感してくださった方は 「農を始めよう」 をご覧ください。

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