朱元璋  シュゲンショウ
生没年
1328〜1398
時代



 明の建国者。貧民の子から身を起こして,群雄を平らげ,元王朝を北方に追いやった。廟号は太祖,謚号は洪武帝。
 元璋の名は後に自らつけたもので,本来の名は重八。17歳のときに疫病で両親と長兄を失った元璋は,生きるために皇覚寺で出家して僧になるが,寺でも食べていけず,3年にわたって諸国を遍歴する。1352年(至正十二年),反乱を起こした郭子興(カクシコウ)のもとに身を投じる。その後,頭角を現し,郭子興の養女馬氏の婿に納まり,一族の中に食い込む。至正十五年,郭子興が死ぬと朱元璋は郭一族を抹殺することにより,その軍団を掌握,翌年集慶(南京)を陥とし応天府と改称,自ら呉国公と名乗り事実上自立する。
 この前後から彼は,知識人を積極的に受容し,地元の支配階層と関係を結び,「不殺」を掲げ略奪を禁じるなど,反乱者から,本格的な政権樹立への志向がうかがえる。しかし,しかるべき後見のない彼は,紅巾賊の象徴的指導者の韓林児(カンリンジ)の配下に名目上属した。
 至正二十三年,漁師から身を興し,湖北・江西で漢国皇帝を称した陳友諒(チンユウリョウ)を〔番β〕陽湖(ハヨウコ)で10日間にわたる激戦の末勝利し,韓林児を事故にみせかけて溺死させる。至正二十七年,塩の密売人あがりで,江蘇で呉王を称していた張士誠(チョウシセイ)を滅ぼすと,元朝を打倒するべく,旧友徐達(ジョタツ)を総大将,常遇春(ジョウグウシュン)を副将に北伐を開始。1368年,この年を洪武元年,国号を明と定め,朱元璋は皇帝の位に就く。翌年7月,元王朝の順帝は大都をすて,北方に走り,朱元璋は中国全土を掌握した。
 朱元璋は次第に猜疑心を顕にし,残虐な一面を示しはじめる。彼の在位期間に,一万人以上の処刑者を出した疑獄事件は,胡惟庸の獄・藍玉の獄以下五回にも上る。彼は自分の死後功臣が反逆をおこすことを恐れて,対蒙古の要地には自分の息子たちに兵権を与えて配置した。後に孫にあたる建文帝を破滅に追いやったのは,彼のこの虐殺のためであった。