「氷帝の忍足」
いきなり背後から声をかけられて忍足は眼鏡が外れるほど驚いた。
すごい勢いで振り返ると、そこには確かに見覚えのある男が。
「ああ、やっぱり正解だ」
振り返った忍足を見て満足したように頷くのは、忍足の記憶が正しければ青学の乾だ。
「どうも」
はっきり言って何の接点も感情もない相手だけに、挨拶もつい素っ気なくなる。
今はそれよりも大事なことがあるし。
「ふむ……」
乾は忍足を見、そして少し考えるような素振りで頷く。
「英二を尾行……当たり?」
ぎくっ。
その通りだった。

昨日は菊丸が忍足の家に泊まり、今日ものんびりしていたのだが、昼食が終わってから菊丸が散歩に行こうと言い出した。
「菊丸、寒ない?」
「へーきへーき。歩いてれば暖かくなるよ」
菊丸は散歩が好きだ。
ありふれた、代わり映えのしない道を、さも楽しげに歩く。
それにつられて、忍足もつい一緒に散歩してしまうのだ。
だからこれはいつものこと。
そして並んで歩いていたかと思うと、すぐに何かを見つけてはそっちに向かっていく菊丸の後を忍足が追うのがいつものパターン。
だったのだが。
好奇心旺盛でフットワークの軽い猫は、ちょっと目を離した隙にいなくなった。
慌てて探してみれば、少し離れた路地の中で垣根越しに犬を構って遊んでいるところで、安堵半分、悪戯心半分で菊丸自身がはぐれた事に気付くまで放っておくことにしたのだ。
ひとしきり犬と遊んで顔を上げ、菊丸はすぐに忍足がいないことに気付いた。
キョロキョロと忍足を探す菊丸に、すぐに声をかけようとしたはずだったが、菊丸が自分の方へ来るのを見て、忍足はなぜか素早く物陰に隠れていた。
小学生(ガキ)でもないのに、と思うが、一度隠れてしまったからか、なぜか出て行けなかった。
自分でもよくわからない葛藤の間に、菊丸はキョロキョロと忍足を探していた。
それから今まで歩いた道のりを戻り、忍足の家で鍵がかかってるのを確認。
それからまた歩き出して駅前へ。
忍足がよく行く本屋、喫茶店、レンタルビデオ屋を道なりに見て回る。
菊丸が忍足が普段行く場所を把握しているのが、なんとなく嬉しい。
段々不安げになる菊丸の顔に多少の罪悪感は感じるものの、『追いかけられる』という喜びもなかなかに離しがたい。
つまるところ、うまく出ていくタイミングも見当たらないというわけで。
菊丸を見失わないようにしつつ、これからどうしようかと思案していたところだった。

「……乾、やったっけ? こんな所で何しとん?」
「通りがかっただけだけど。ここに来るまでの経緯を話すと、かなり長くなるよ」
朝起きて買い物に思い立つところから始まるからね、と言う乾を、忍足は胡乱げな目で見た。
「さよか」
なんと言うか、つかみ所のない奴だ。
忍足はなんだか遠い目をしたくなった。
が、遠い目をしているヒマはないのである。
辺りを見回しながら歩く菊丸からは目を離さずに、忍足も慎重に移動する。
菊丸が駅前で途方に暮れる。
そして少し離れた物陰で忍足も途方に暮れていた。
「自分、なんでついてくるん?」
我ながら冷ややかな声を出しているという自覚はあった。
だが頭の中で『菊丸の側にいたい』自分と『自分を追いかけてくれる菊丸が見たい』自分が小競り合いをしている今の忍足には、愛想をつくるだけの気遣いをする気にもなれない。
「まあ、いいか。じゃ、挨拶もしたし、俺はこれで」
そうそう、さっさとどっか行け。
心の中でそう呟いていた忍足だったが、乾が真っ直ぐに菊丸に向かっていくのを見て目が点になった。
どっかに行けとは言ったが(心の中で)、菊丸のところへ行けなんて言ってない。
まさかとは思うが、バラすなんてことは……。
かと言って今出て行っては、見てましたと自分からバラすのも同然だ。
忍足は逸る心を押し殺して、とりあえず様子を見ることにした。
乾が話しかける。
気付かれないように距離を取ってるせいで、何を話しているかまでは聞き取れない。
しかし菊丸のすがるような目が乾に向けられているのにムカつく。
……勝手な話だ。
菊丸は乾が何か話しかけるたびに、首を縦に振ったり横に振ったりしながら返事をしている。
と、いきなり乾に背を向けて走り出した。
何があったのだろうといぶかしむ間もなく、また乾がこちらに向かってくる。
乾の眼鏡が逆光で光るのが、なんとなく悪い予感を思わせた。
「忍足」
乾はにこやかに(この『にこやか』が胡散臭い!)話しかけてくる。
「いいデータも取れたことだし、ちょうどいいから貸しを一つ作っておくことにしたよ」
「……どういう意味や」
「君が英二から隠れて尾行を始めた場所の側に児童公園があっただろう? その辺りで君を見たと英二に言っておいたよ。誰かを探してるみたいだった、ってね」
「それはどーも……って、自分、どっから見っとったんや」
「最初から」
あっさりと言う乾に、忍足はがっくりと脱力した。
「どうでもいいけど、早く行った方がいいんじゃないかな」
それもそうだ。
こんな危なそうなヤツとこれ以上係わり合いにならないためにも、早く行かなければ!
忍足は走った。
おそらく部活の時よりも真剣に走った。
そして、うっかりカモフラージュも忘れてブランコでしょんぼりしてる菊丸に向かって一直線。
「菊丸!」
「忍足!」
走りながら呼びかけると菊丸はすぐに立ち上がった。
ぱあっと顔を明るくしたのもつかの間、菊丸は腰に手を当てて仁王立ち。
「もー! ダメじゃん、迷子になっちゃあ」
……迷子は俺の方なんか。
しかしクレバーな忍足はその言葉を口にしないだけの分別があった。
「ちゃんと俺について来なきゃダメなんだかんな!」
なにしろ怒った顔をしてるはずの菊丸は、どう見ても不安から安堵の感情の起伏に泣き出しそうな顔をしていたから。
もちろん中三にもなって、こんなことで泣いたりするわけもないが。
へにゃりと下がった眉が菊丸の気持ちを素直に見せているようで、忍足は心底素直に
「悪かった。かんにん」
と謝った。
そっと手を伸ばして髪をサイドから梳くように撫でると、菊丸も一歩近づいて忍足のジャケットの裾を握った。
「無事に会えたようだな。よかった、よかった」
せっかくのいい雰囲気だと言うのに、いきなり背後から、なんだかとても聞きたくない声が聞こえた。
「あ、乾!」
菊丸はパッと手を離して乾に走り寄った。
むっ。
「さっきはあんがとな」
「いや、役に立てたならよかったよ」
ぽんぽんと菊丸の頭を撫でる乾。
むっ。
「でも乾、よく俺が忍足探してるってわかったよね。俺言ったことないのに」
言ったことがないのは、たぶん忍足と付き合ってる……とまではいかなくても、仲がいいと言うこと含め、だろう。
乾はなぜかチラッと忍足を見てから菊丸にニヤリと笑った。
「英二のことだからね」
「俺のデータは調査済みって?」
「ま、そういうこと」
むっ。
あはは、と笑う菊丸に相対して、忍足の機嫌は下降一直線だった。
菊丸が乾に向かって笑いかけるのも、乾が馴れ馴れしく菊丸に触れるのも、菊丸のことをわかってるんだぞという主張も、『英二』と呼ぶのも何もかもがムカつく。
だいたい菊丸が忍足を探していたのを知ってるのは見てたからじゃないか。
「そういう英二はどうなんだい?」
「へ? なにが?」
「ちゃんとデータは把握してるのかなってことだよ」
乾はチラリと思わせぶりな視線を忍足に向けた。
「え? う……うーんと……まあ、ちょっとは?」
「次に迷子になった時のためにも、少しは考えておいた方がいいかもな」
「迷子は忍足の方」
きっぱりと言い切った菊丸に、さすがの乾も少したじろいだようだった。
「……じゃあ、迷子の忍足を探すためにもって言っておこうか」
立ち直りが早いのは付き合いの長さのせいだろうか。
そう考えると、それはそれでまたムカつく。
「忍足がよく行く場所とか?」
「そうとは限らないよ。例えば……」
そう言いながら乾は菊丸の肩を抱くようにして耳元に顔を寄せるのを見て、忍足はぐいっと菊丸の腕を引いた。
「え? ちょっと忍足、なに??」
「……帰んで」
「へ?」
引っ張って歩き出す。
「ちょ、ちょっと忍足!?」
「英二」
言い聞かせるようにゆっくりと。
「帰るんや」
菊丸は目を丸くしっぱなしで、忍足に手を引かれるままに歩き出した。
背後で楽しそうに眼鏡を光らせている乾のことなどわざと無視した。

家に帰るまで、二人とも無言だった。
忍足は覚悟していた。
友達といたところを強引に連れ帰ったのだから、さぞかし機嫌の悪いことだろうと。
しかし、その後の菊丸はとんでもなく上機嫌で、忍足はとんでもなく複雑な心境に陥った。
まず最初に恥ずかしい。
自分が嫉妬していたという自覚は当然あったから。
それから腹立たしい・嬉しい・悲しい・愛しい etc.
複雑で、面倒で、自分でも自分の感情をはっきり把握できない状態。
菊丸と近づけば近づくほど、こういったことが増えた。
面倒なの嫌い。見苦しいのも嫌い。
そう思っていたはずだったのに、それがたった一人の人間のために発生するのだと思えば、そんな不快なはずの感情ごった煮だってそんなに悪いもんじゃない。
そう思えてしまう自分に、そして自分をそう変えてしまった菊丸に、忍足の口元に笑みが浮かぶ。
「……な〜に笑ってんだよ」
コーヒーを入れていた菊丸がバツが悪そうに睨んできた。
「菊丸んこと笑ろたんとちゃうよ」
菊丸があれ? という顔をして、それからつまらなそうに肩をすくめた。
呼び方のことだろうというのはわかったが、きっかけがあれでは、菊丸を呼ぶ度に思い出してしまいそうで、それは勘弁して欲しいと思った。
自分が侑士て呼んだらな。
こっそりと心の中でつぶやいて、だけど何も気付かない顔で菊丸の入れたコーヒーを一口。
気長にいこう。
今までのどうでもいい付き合いとは違って、終わりのことなど考えられない長い付き合いをするつもりなのだから。
菊丸と一緒にお茶を飲む新しい日常の中で忍足はひっそりと笑った。
そして乾(を含む青学全員)を牽制するための策を練り始めるのだ。
もちろん菊丸に知られることのないように、というのが大前提としてつくのだが。


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