菊丸は半分あきらめた顔で歩いていた。
その半歩先行くのは、テニスをやっている者で知らぬ者はいないと言う跡部景吾サマである。
いつからだっただろうか。
跡部はこうして、毎週ではないけれど水曜の午後に青学を訪れるようになった。
一人で。
そして当たり前というように菊丸に『ちょっと付き合え』と言って二人で帰る。
青学から菊丸の家まで。

ほんっと、なに考えてんのかわかんない。

菊丸は半歩前の跡部を見上げた。
もちろん最初は嫌がったのだ。
エリート面して偉そうにふんぞり返ってる氷帝の、しかもそのトップに立ってふんぞり返ってる跡部(菊丸論)と歩くなんて絶対嫌だった。
話すことだってないし、窮屈で息が詰まりそう。
だから必死で抵抗して逃げ回って。
でも最後には、まさに曳きたてられるようにして連れ出され、菊丸が騒いだせいもあって全校中の注目の的。
もちろん部活後だったので、目撃した生徒の数は限られていたものの、次の日の学校では知らぬ者がいないほどに噂がかけめぐっていた。(もちろん尾ひれ背びれ、おまけに胸びれまでついていたことは言うまでもない)
いくら菊丸が注目されるのが好きだと言っても、こういう注目のされかたは不本意この上なかった。
だから次からは最初からあきらめて、さっさと学校を離れることにしたのだが。
特に何を話すわけでもなく、ただ菊丸の家の前まで歩くだけ。
偵察という様子でもないし。
菊丸には跡部の意図がわからず、それがまた気持ち悪くて仕方がなかった。

もしかして……トモダチいないのかな。
だから、わざわざ青学まできて、一番フレンドリーっぽい俺に話しかけてるとか。

『氷帝嫌い』宣言をした菊丸がフレンドリーもないと思うのだが。

そうだよなー。いっくら顔がよくたって、テニスがうまくたって、聞いた話だと頭もいいらしいけど、性格があれじゃねー。
来年は樺地とも離れるわけだし、きっとこれじゃいけないって思ったんだ!

そかそか、と一人で納得する菊丸を跡部が振り返った。

「……菊丸」
「なにー?」

どことなく疲れているような跡部に、菊丸は少しは優しくしてあげようと愛想よく返事した。
頭の中の言葉を、全部口に出していたことに、菊丸はこれっぽっちも気づいていなかった。

「お前の頭の中が愉快なのは知っちゃいたが……」
「どーいう意味だよっ!」
「まんまだろ」
「なにー、ムカつくー」

そのくせ跡部が突っ込みを入れても、自分が口に出していたことにも、頭の中で考えたこと(菊丸にとっては)に突っ込みを入れられたことにも気づかない辺りが、また菊丸だった。

「じゃあ、なんでいっつも青学(うち)に来んだよ。用なんかないじゃん!」
「……バーカ。自分で考えな」

『バカ』。しかも鼻で笑われるオプション付。

「なんだよっ! 俺が考えたら笑うクセにっ!」
「お、おい……」
「もーやだ! 跡部なんかだいっ……」

ガリっと嫌な音がした。

「っだー!」

右のひじを反してみれば、みごとなみみず腫れからプツプツと血の玉が浮き上がってきている。

「うー……」

菊丸はもう、腹が立つやら痛いやら情けないやらでうなるしかなかった。
ちらっと横目に見れば、それは建材が放置されっぱなしの空き地に廻らされた錆びた鉄条網。
雑草が我が物顔で茂っているせいで鉄条網があることにも気づいていなかった。

「チッ、バカが」

ぐいっと腕を引かれる。

「あー! またバカって言ったっ!」
「うるせぇ」

跡部は菊丸がわめいてもお構いなしに、菊丸の腕をひっくり返したり捻ったりだのして傷を見た。

そのまま傷のない方の二の腕を掴まれて歩きだす。

「なんだよ、離せよ、もう!」
「うるせぇって言ってんだろうが」

不機嫌な顔で跡部が振り向いた。

「菊丸、お前はテニスが好きだ。そうだな?」
「はあ!? そ、そーだけど、だからなに」
「だったら少しは黙ってろ」
「だったらなに! 余計ワケわかんないじゃんか!」

跡部はもう菊丸の喚きになど耳を貸さず、何かを探すように辺りを見回しながらグイグイと菊丸を引っ張ったまま歩く。
辺りは住宅街。
コンビニすら見当たらない完璧な住宅街だ。
菊丸はしばらく喚いていたが、そのうちにあきらめて跡部に歩調を合わせた。

「……跡部ぇ」
「ああ?」

菊丸の声が、さっきまでの文句ではないのを感じたのか、跡部は振り向きはしないものの返事をした。

「腕、痛い」
「当たり前だろうが」
「そーじゃなくて。跡部が掴んでるとこ」
「ん? ……ああ、悪ぃ」

跡部が謝った!

菊丸にとっては青天の霹靂がごとくである。

だって、あの跡部が!

菊丸の目は、うっかり瞳孔まで開くのではなかろうかと思わせるほど丸くなっていた。
菊丸が呆気にとられているうちに、跡部は目当てを見つけたのか、さきほどまでほ何かを探す様子はなくなった。

「って、ここ病院じゃんか!」
「それがどうした」
「それがって……しかも小児科内科じゃん」
「お前は小児科でちょうどいいだろ」
「なんだとー!」

再び喚きだした菊丸を意にも介さず、跡部はズカズカと建物に入っていく。
もちろん、腕を掴まれたままの菊丸も以下同文だった。

「すみません。錆びた鉄条網で腕を切ったので消毒してもらいたいのですが」

跡部が大人用の(菊丸に言わせると猫をかぶった)声で受付に話しかける。

「おーげさだよ」

ブツブツと文句を言う菊丸だったが、ここまで来ると逆に病院を怖がってるみたいで大声で文句は言えなかった。
幸いに(かどうかはわからないが)患者は他になく、笑われることも待たされることもなくすぐに診察室に呼ばれる。

「んー、どれどれ」

眼鏡をかけたおじいちゃん先生が傷を見る。

「こりゃまた見事なもんだね」

なんて笑われて。
丁寧に消毒された。

「病院なんて大げさですよねー」
「んー? いやいや」

おじいちゃん先生は傷薬を塗りながら軽く首を左右に揺らした。

「錆びはねぇ、いかんよ。今の子は特にね。免疫とか少なくなってるからね。破傷風なんてなりたくないだろう?」

いいお兄さんじゃないか、と言われて、菊丸は内心『くそー! 同い年なのに!』などと思いっきりむっとしながらも、あーまあ、はあ、なんてごまかした。
だって兄でもなく、トモダチですらないかもしれない跡部をどう説明していいかわからなかったから。
破傷風がどんなものかもわからなかったし。

「破傷風は怖いよぁ? 下手すれば腕を切り落とすことになるからね。まあ、最近はあまり聞かないがね」

多分に脅かしを込めて大げさな説明だったが、菊丸はその後の『まあ、実際は破傷風菌てのは土の中のもので、最近は土がむき出しのところもないからねぇ』なんて昔を懐かしむおじいちゃん先生の言うことなんて聞いてなかった。

手を切り落としたらテニスができないから?
だからあんなに跡部は傷の手当てをさせようとした?

『お前はテニスが好きだ。そうだな?』

好きなテニスができなくならないように?

跡部の印象が変わる。
急速に。

もしかしたら……ほんのちょっとはイイ人なのかもしんない。

今までが今までだったから、意地も手伝って『ほんのちょっと』。
だけどそれは、二人にとっての大きな一歩。

治療が終わって、跡部と治療費の出し合いをしていたら、おじいちゃん先生が診察室から出てきて『簡単な消毒だけだからいいよ』と笑われ。
菊丸の家の前まで歩く間も。
ずっと菊丸は跡部のことを考えていた。
どうしてだかわからないけど、なんだかドキドキする。
たくさんの「?」。
答えはたぶん跡部しか持っていない。
きっとこのドキドキは、その答えが知りたいってこと。
菊丸はそう思った。

「じゃあな」

いつものように家の前で別れる。
はずだったのに。

「跡部!」

菊丸は跡部を呼び止めていた。

「あのさ……えと……来週も来る?」
「お前が望むならな。来てやってもいいぜ」

いつもなら『ウソばっか。望まなくても全然来てるじゃん』とか言うところ。
だけど菊丸は少し考えて。

「……考えとく」

跡部は軽く肩を上げて、でもニヤリと笑ってから、ふっと一回だけ手を上げて歩いていった。

菊丸は跡部の後姿が見えなくなってから、きっと跡部は来週来るだろうな、と思った。
来るといいな、と思いながら、家のドアを開けた。


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