「おい、菊丸」
いきなり呼び止められて、菊丸は振り返った。
偉そうな言い方だな、とか、なんか聞き覚えがある声だと思ったのは振り返ってからだった。
振り向かなければよかったと思ったのも。
「げ、氷帝!」
「誰が氷帝だ、アーン? まさかとは思うが、俺様の名前がわからねぇなんて言わねぇよな?」
ん? と顎を指で持ち上げられ、菊丸はぶんぶんと首を振って逃れる。
「なにすんだよっ! 名前くらい知ってるっての、この跡部跡部跡兵衛!」
んべーっ!
「……このクソ猫が」
小さく呟いた跡部だった。
聞こえないフリで菊丸はじりじりと距離を取ろうとするが、跡部は早々に気を取り直したらしくニヤリと笑った。
「まあいい。今日は用があってきたんだ。こっちに来い」
顎をしゃくってついて来いと言う。
跡部が菊丸に用事なんて個人的な理由でしかないはずだが、『用がある』と言われては菊丸はついて行かなければいけないような気になった。
それが間違いだったと気付くのは、全てが終わってからの話だ。


「まあ、ここらでいいか」
気がつけば人の気配のない、どこかの建物裏である。
さっきの場所からはそれほど離れてはいない。しかし見事に人気のない場所だった。
跡部は足を止めて振り返った。
それに一瞬遅れて菊丸も。
菊丸は跡部がいったいなんの用だと言うのか、気になって仕方がない。
この傍若無人な王様は、いっつも何の恨みがあるんだか、なにかにつけてはちょっかいをかけてくるのだ。
どんなにキツイ言い方をしても、場合によっては手や足が出ようとも事もなげにいなしては、また構ってくる。
はっきり言って、菊丸の氷帝嫌いはこの俺様のせいだ。
「で、用ってなんだよ」
くやしいけど腰が引けてしまうのは、口でも手でも、更にはテニスでも(これが一番くやしい!)かなわないからである。
跡部は小さく笑った。
(それがまた気に入らないのは当然のことだ)
「お前、今日が何の日か知ってるか」
「……バレンタイン以外知らない」
「ふん、まあ知ってて当然か」
当たり前だ。
跡部とは比べたくないが、菊丸ははっきり言ってモテる。
それがお友達感覚だろうが、ファン心理だろうが、バレンタインはチョコレート用に紙袋を用意しなければならないほどなのだ。
本当に何を考えてて、何が言いたいんだろうと菊丸が思ったその時、ふっと目の前が陰って唇に柔らかい感触がした。
瞬きを三回。
「なっ、おっ、あっ!」
訳すと『なにすんだ、お前! この跡部めーっ!』だろうか。
しかし日本語で反論する暇もなく、文句を言うために口を開けた菊丸を待っていたかのように跡部は素早く動いた。
今度は腰と頭の後に手を回し、それはもう念入りに深く深く。
軽いバードキスでパニくっていた菊丸は更にパニックに陥った。
それをいいことに、跡部は心行くまま存分に堪能する。
しばらくして混乱と酸欠でくったりした菊丸から離れた跡部は満足そうに唇の端を上げた。
「菊丸」
壁に寄りかかってまだパニック中の菊丸の頬を軽く撫でる。
「これが俺のバレンタインキッスだ。ありがたく受け取んな」
そのまま菊丸を置いて去ろうとし、二三歩歩いて思い出したように振り返った。
「ホワイトディ、楽しみにしてるぜ」
チュ。
鮮やかな投げキス。


そして菊丸が我に返った時には、すでに跡部の影も形もなく……。
「跡部のばかーーーーっ!!!」
「変態! 色魔! エロ親父ーっ!!!」
「歌と全然違うじゃん!!!」
菊丸の叫びだけが、人気のないその場に響いていた。
もちろん、以前から菊丸が好きで、可愛くてちょっかいをかけていた跡部の気持ちには、菊丸は全然まったく気付く事はなかった。


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