「い〜ぬいっ! 帰ろっ」
乾以外はいなくなった教室のドアから菊丸が顔を覗かせた。
練習後、忘れ物に気付いた乾は一人教室に戻ったのだ。
「ああ、お待たせ。……それにしても」
乾は改めて菊丸を眺める。
「すごい荷物だな」
「まーね」
菊丸は通常のラケットバッグに、プラス紙袋(大)を両手に下げている。
それも上まであふれんばかりで、入っている可愛らしいラッピングをされた箱がのぞいていた。
「やっぱ三年になると増えんねー」
そういう問題ではないと思うが。
乾は自分のラケットバッグに入りきってしまった数個のチョコレートのことを考えてみた。
「明日、直接家の方に来る子もいるんじゃないか?」
「うは……明日は一日でかけよっかにゃー」
菊丸はぼやきながらも乾を急かす。
「ほら、もう下校時間過ぎてんだから早く早く」
促す菊丸に従って教室を出た。
「そうだな。……ああ、一つ持とうか?」
「えー? 悪いよ」
「幸い俺は身軽なんで」
おどけたように言うと、菊丸は小さく笑って荷物を見下ろし、右手に持っていた方の袋を差し出す。
「んじゃ、お願いシマス。あんがと」
受け取った袋は結構な重さだった。
気のせいか、部活が始まる前より増えている気がした。
教室の明かりが落とされ、白々とした廊下を抜けて校舎を出る。

菊丸の家の近くにある児童公園に寄った。
「あ〜っ、つっかれた〜」
足を投げ出して菊丸が膝丈の柵に腰かける。
乾は側のベンチを見て、それから自分も柵に腰をおろした。
腐りかけたベンチに座るよりは安定・衛生共に柵の方がマシに見えたのだ。
「疲れたときには甘いもんがいいんだよね」
菊丸は自分が持っていた袋の中から無造作に、その中ではかなりシンプルな包みを取り出して開けた。
それには特にカードや何かがついてはいなかった。
「ん〜、なんか沁みる〜って感じ」
一つ食べて乾にも箱を差し出す。
「はい。乾も食べなよ」
「いや、俺は……」
「いいから、いいから」
菊丸は勝手に箱を乾の膝の上に置いた。
安定が悪いのため、菊丸が手を離すと危なっかしくて結局は乾が持つ形になる。
「これは英二がもらったものじゃないか」
「どうせ持って帰っても、ほっとんど姉ちゃんたちが消費すんだもん。いいじゃん」
菊丸はぷいっと顔をそらした。
「俺はいいよ」
正直に言ってしまえば誰かが菊丸に向ける好意への嫉妬だ。
別に乾は菊丸が他の人間に目を移すことを疑っているわけではない。
しかし、だからといって菊丸が多くの人に好意を持たれているのは頭で理解していても、それを目の当たりにしてしまうのは嬉しくないのだ。
テニスもそうだが、こと菊丸に関しては特に『理屈じゃない』と思わされる。
願わくば、もう少しその辺りを理解してもらえれば、と思う。
「いいから食べろってば!」
しかし菊丸は一歩も譲る気配なし。
馬鹿馬鹿しいと思わなくもないが、乾もつい意地になってしまう。
「いや、俺は食べない」
「乾のバカッ!」
勢いよく菊丸は立ち上がり
「それ食べるまで乾とは口きかない!」
そのまま家に走って帰ってしまった。
2袋の紙袋は置き去り。
今時、小学生でも言わないであろう菊丸の捨て台詞は、しかし乾にはとても痛いものだった。
乾は途方に暮れた。
じっと膝上のチョコレートを見下ろす。
どちらにしろ、紙袋を菊丸の家に届けなくてはならないのだ。
なにしろここは菊丸の家の側だし、乾がこのまま持ち帰って後日に改めるメリットはない。
食べずに嘘をつくという手がないわけではない。
しかしそれは避けたかった。
菊丸は敏い。下手な嘘をつけば事態は更に悪化しかねない。
それになによりも、乾自身が菊丸に嘘をつきたくなかった。
いつでも菊丸の目を正面から見て話したい。
乾は意を決して(そんな大げさな……)手の中のチョコレートを口に入れた。
自棄になって、残っていた分全部を口に入れた。
口いっぱいに広がる甘みと苦味。
まるで乾の心境のような味は、すぐにふわりと溶けて消えた。
甘すぎず、ビターな上質なチョコ。
ふと乾のデータに何かが引っかかった。

・菊丸のチョコレートの好みは甘いミルク系
・菊丸はオープンな性質で女子とも気軽にしゃべるし、チョコをねだることもするから、女子は概ね菊丸の好みを把握している。
・菊丸の好みを知らないような他校生でも、わざわざ今日来るくらいなら明日を狙うだろう。
・菊丸の好みを知らないならば、むしろイメージで選ぶ可能性が高く、それにビターを選ぶ女子は極めて少ないだろう。
・菊丸は気ままで我儘な印象があるが、本当に嫌がっていることを無理に押し付けることはしない性質だ。

それらのデータから引き出される結論は?
かなり推測の部分もあるが、それを差し引いても確率は約80%。
乾は紙袋2つを掴むと、足早に菊丸家へ急いだ。
呼び鈴を押すと、すぐに上の姉が出てきた。
「ああ、乾君。来ると思ってた」
乾の顔を見るなりそう笑われて、乾としては冷や汗だ。
「英二は『いないって言って』って、部屋で言ってるわ」
「……すみません」
靴を脱いで上がりこむ。
乾としては、どこまで菊丸との関係を把握されているのかまったくわからず、何をどう言っていいかもわからなかった。
紙袋を両脇に置いてノックノック。
「誰……」
「英二、俺だ」
「……乾とは口きかないんだもんねーだ」
菊丸はまだご立腹らしい。
まあ、考えてみれば、あれからさほど時間が経っているわけでもない。
だがここで折れる気もなかった。
「食べるまでは、だろう? ……美味かったよ。ご馳走様」
「………………」
しばしの沈黙の後、ゆっくりとドアが開いた。
まだ僅かにふくれっ面の菊丸は目線を合わせないまま口ごもりながら
「あれはもらったモンだもん」
何も具体的なことは言ってないのにわざわざそう言うから、乾は推測が確信になった。
本当はもっとさりげない出来事になるはずだった。
それを大事にしてしまったのは乾だったから、乾は敢えて菊丸の意図を明言はしない。
「それでも俺が英二に言いたいからいいんだ。ありがとう」
「乾ぃ……」
菊丸がそっと乾の指先を握る。
それを握り返しながら乾はここに来るまでに考えたことを提案した。
「英二、明日一緒に出かけないか」
「え?」
「明日……英二がチョコレートをもらってるかも知れないと思うと落ち着かないからね。それくらいなら一緒にいて見張っていたい」
菊丸は目を丸くして乾を見上げた。
「乾、俺がチョコレートもらうのヤだ?」
「まあ、英二がもてるのは知ってるから諦めてはいるが、心中穏やかでないのは確かだな。もしかしたら、ものすごく可愛い子とかがいて英二がその気になるんじゃないか、とかね」
決して言うつもりはなかったが、ぶちまけることにした。
今回のペナルティのつもりだ。
「……俺は松浦より矢口より紺野より乾がいいな」
ハロプロばかりなのがやや気になったが、とりあえず今は突っ込むところではない。
「明日は俺のデータの中で一番お勧めの店に連れて行くよ」
「へへ、楽しみ」
やっと菊丸が笑って、乾はやはり菊丸は笑顔が一番いいと思う。
菊丸は表情が素直に出るから。
明日の待ち合わせを決めながら、今夜は徹夜ででも美味しいチョコレート系デザートの店を検索しようと内心思う乾だった。


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