乾がコートを出る。
「乾、お疲れ様。よくやったな!」
「お疲れ様、乾。次は僕の番だね」
「お疲れっス」
みんなに声をかけられ、肩を叩かれ。
クールダウンに向かおうとした乾の足は、だが後からユニホームを引っ張られて止まった。
「博士ーっ!」
振り返った乾の胸に飛び込んできたもの。
まさしく飛び込んできた。
体当たりというか、頭突きというか。
「……博士はカンベンしてくれないか、英二」
踏鞴(たたら)を踏みつつ菊丸を受け止めた乾は、照れ困ったように首を傾けた。
実際、小学生ならではの呼び方は、今思えばちょっと恥ずかしいもので。
柳とは呼び合っていた間柄というのもあって、昔に帰って呼ぶこともするが、今の知り合いに呼ばれるのはかなり照れくさい。
それが最愛の恋人であるとしても、だ。
菊丸はそれに対しては何も言わず、左手を乾の腰に回し、頭を胸につけたまま……。
「英二……」
乾は更に困った顔で呟いた。
「俺はなんで強烈なボディへの連打を受けているんだ?」
菊丸の右手は、乾をわき腹をガスガスと殴っていた。
まさか本気のわけはないが、だがそれはけっこう痛かった。
……いや、かなり。
「……ムカつく」
乾の声に連打は止まったものの、菊丸はまだ乾の胸に頭をつけたまま呟いた。
「すっげームカつく」
「……英二?」
菊丸はゆっくりと顔を上げ、乾を睨み上げる。
その目は試合中と同じ色をしていた。
「乾があの柳ってヤツと知り合いだったのも、俺にはわかんない関係だか因縁だかがあったのも、俺にはダメだって言うのにあいつとは博士と教授って呼び合うのも、乾ばっかカッコいいのも……」
乾は内心苦笑しかけた。
だが。
「でも、そういうのひっくるめても一番ムカついたのは、乾にデータ捨てさせてあんなガムシャラなテニスをさせたのが俺達……ううん、俺じゃなかったことだ」
苦笑はどこかに飛んでいった。
「今まで乾にそうさせるだけの力がなかった俺に……一番ムカつく!」
ガツンと頭を殴られた気がした。
今までの自分を振り返る。
あれほど勝ちたいと思ったはずの手塚との試合でさえ、自分はあれほど全てを賭けた試合をしていただろうか。
相手を知っている、データを持っていると思い込んで、頭の中で計算した結果で諦めてはいなかっただろうか。
これが同じチームであるということで、今まで乾のどこかにあった甘さだったというのならば……乾はこの試合をしたことで更に強くなったはずだ。
いつの間にか叩いていた手で乾のユニフォームを鷲掴んでいた菊丸は、その手で思いに沈んだ乾を揺さぶった。
「見てろよ、次に俺と試合する時は、あんくらい……いやあれ以上に全力出させてやる!」
肉食獣の瞳。
呆然としながらも、乾はその瞳に目を奪われた。
一番近くにいるライバル。
恋だの友情だの、甘やかな感情を取っ払い、高みを目指すテニスプレーヤーとして立つ姿。
色々な顔を見せる菊丸の中でも、もっとも魅せられる顔のひとつだった。
しばし睨み合うような形で考えた後、乾は頷いた。
「OK、英二。楽しみにしてるよ」
謝るのではなく、礼を言うのでもなく、たぶんこれがお互いにとって一番いい答え。
「おーっし!」
菊丸は大きく頷いて、乾から手を離す。
「気がすんだ」
深呼吸して。
「お疲れ、乾。ムカついちゃうほどカッコよかったぞ」
と笑った。
その笑顔にほっと息が抜けて、乾はやっと試合が終わったのだと実感した。


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