倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
倶楽部メモSP
上越急行とサンパチ豪雪
サンパチ豪雪での国鉄の苦闘・「越路」の編成


倶楽部メモ(368) 平成19年 5月29日〜 6月 2日

投稿者 ホエ7030
投稿日 2007年 6月 1日(金)18時52分9秒
タイトル 東海道848レ・他
>103列車機関士 様

 北海道ファンの私は、通学の際に北海道からのアルバイト車を見つけては乗ったものですが、
何と、東海道線には、113系や153系全盛時代のS40年代前半まで
熱海→東京(下りは品川→熱海)の848レという東シナ受持ちの客車列車が残っていて、
冬季になると、オロ1両以外の殆どが北海道の客車で編成されていたことがありました。
 この列車は、13:10過ぎ頃に東京に到着し、その後一旦神田方に引上げられるのですが、
私は、S40.2.3に神田でスハ3324・25(函ハコ)、スハ5053・54(旭アサ)、
オハフ607(札イワ)、オロ3510(東シナ)を撮りました。
この848レに関して客車趣味界の先輩方が調査された資料を見ますと、
S40.10.21の編成は、スハ32・43、オハ46・60、スハフ32・42等で、
所属は東シナ、大ミハ、門タケ、千ナタで、S41.2の編成ではスロ432016のみが東シナで、
他は札サウ、旭アサ、釧クシ、東イイ、新ニイ、新ナカ、水ミトの
スハ32、スハ50、オハ62、スハフ32、オハフ53で編成されています。
同資料によるS42.1〜2頃の編成では、並ロが特ロのスロ51やスロフ53になり、北海道車は入って無いようですが、
スハ32、スハ33、オハ35等に混じってオロ40がハ代用で2両も入ったり、格下げのオハ51等が入っています。
 他に、バラバラな所属の客車で編成された例を同資料から拾ってみると、
S37.12.2にY.S.様が調査された701レ「佐渡」は、
大ムコ、天リウ、天シク、名ナコ、新ニイ、新ナオ、東オクで編成、
702レ「弥彦」は、大ムコ、名ナコ、新ナオ、東シナ、東オク、東コフで編成されています。
定期の急行がなんでこんなことになっているのか実に不思議です。
このような実例があるのですから、模型の世界なら夢は際限なく膨らみますね。
 戦災復旧車の編成例についても、同会の資料に何点か掲載されていますが、
一般的には編成中にバラバラに組み込まれているようですが、
名ナゴのオハ70の例では、8両編成中両端がスハフ32で中間の6両がすべてオハ70と言うものがありますし、
山陽線の14両編成の普通列車で、東京方3両が大ヒメのオハ71と言うのもありました。
S20年代中頃までのことですから、編成中には木造車も見られます。

投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月 1日(金)23時01分45秒
タイトル 上越急行とサンパチ豪雪
 ホエ7030様、興味深い編成記録のお話しありがとうございます。
 701レ「佐渡」と702レ「弥彦」についてですが、
これはもしかしたら、雪害によるイレギュラーだったのではないでしょうか?
 S37.12.2といいますと、有名な「サンパチ豪雪」の直前ですね。
それでなくとも、かつての冬の新潟地方は今よりもずっと雪が多く、
交通の途絶など日常生活への影響が大きかったと聞きます。
列車の遅延や運休で客車運用に支障が出て、急遽各区の予備車をかき集めて編成を仕立てる…といった場面も想像されます。
当時の上越急行の客車は、本来全て新ニイの受け持ちでしたが、
ご紹介の受け持ち区を見ますと、そのような状況だった可能性も感じます。
 その編成記録をご紹介戴くことはできませんか?


 さて余談ですが、雪害と言えば外せない「サンパチ豪雪」のお話を少々…
 Y.S.様による編成調査から1ヶ月余り後の昭和38年1月中旬、
新潟地方を中心とした日本海側一帯を、史上まれな豪雪が襲いました。
全国の国鉄組織からかき集められた応援部隊に、自衛隊も加勢しての総力を挙げた除雪作業もむなしく、
一時は北陸から新潟一帯の国鉄各線は麻痺状態に。
ダイヤが正常に戻るまで実に1ヶ月余りの間、白魔との壮絶な闘いが繰り広げられました。
 この中で象徴的な出来事が、急行「越路」の苦闘でした。
1月23日17時過ぎ、約1時間遅れで新潟を発車した704レ「越路」は、発車直後から難行苦行に見舞われました。
本来は当日の22時過ぎに着くはずの上野駅に、満身創痍の「越路」が姿を現したのは、
なんと車中5泊を経た28日朝のことでした。
その2年後に発行された鉄道ファン1965年2月号には、1ヶ月以上にわたる白魔との闘いを取材した記者の手記とともに、
駅員総出の出迎えを受け、上野駅16番線(当時)に到着する、雪だるま状態のEF5836号機の写真が掲載されています。
 この頃は、運休を最大の恥辱とする明治以来の意識が国鉄の現場に根付いていましたが、この「越路」の一件を教訓として、
ダイヤ混乱時には早めに運休や途中打ち切りを決断する今の考え方に転換してきたということです。

 余談の方が長くなってしまいましたm(_ _)m。

投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2007年 6月 1日(金)23時49分57秒
タイトル 越路のお話
小学生の頃毎月科学と学習を読んでいました。その中に豪雪と戦ったお話が載っていました。
今でも内容は覚えています(鉄分が多い子供だな)各急行は長岡で運転中止。
越路も越後滝谷まで進むも引き返してくる。長岡の宿は超満員なので各駅停車のお客様がアブレてしまう。どうしよう。
そんな時自衛隊の隊長さんが国鉄に官舎を使ってくださいと申し出。
国鉄は大丈夫ですかと尋ねると隊長さんは我々は訓練を受けているので屋外でも平気です。そして皆無事に上野へ。
感謝の手紙が数えくれないくらいあったそうです。
でも自然災害はしかたないですね。有珠山が噴火して室蘭本線不通。北斗星は函館本線回りに。
得意先との雑談の中でまたどこか行くの?函館本線回りの北斗星に乗ってきます(^^)好きだねえの返事。
後日お土産を持って行ったのは言うまでも無い(^^;

投稿者 雑魚
投稿日 2007年 6月 2日(土)08時15分57秒
タイトル 「学習」 と 「科学」
> 運休を最大の恥辱とする明治以来の意識

1960年代前半とあれば、地方の広域輸送における国鉄幹線の地位は圧倒的かと思われ、
特に上越線の場合は、群馬・新潟県境前後の並行道路が脆弱(現在でも国道17号線は、
魚野川から清津川にスライドする格好で、苗場を迂回していますね)気味でしたから、
特に積雪期の運行維持は、重要な命題だったのではないかと想像します。

> その中に豪雪と戦ったお話が載っていました。

もしや「白い悪魔を蹴散らせ!」と題した劇画調の漫画ではないでしょうか。国鉄を
引退した老人が、雪を見ながら「三八豪雪」時の混乱を回想するという場面で始まり、
クライマックスでは、凍結したポイントで、トーチを炊いていましたね。

これが掲載されたのは、学研「学習」付録冊子の掲載かと記憶しますが、東海道線は
丹那隧道の開削工事を巡る苦闘振りも小説形式で紹介されており、大規模落盤事故で
奥の工事区画に閉じ込められたチームが、工事用の藁を食べるなどして、救出までの
数日間を過ごしたなど、子供には結構「重い」内容だった様に思います。

一方の「科学」では、かの石ノ森章太郎が自ら執筆した「サイボーグ 009」モドキの
漫画「未来救助隊・アスガード 7」が印象的でした(^^)チーム・リーダーの「島村
ジョー」ならぬ「ケン・マナブ」は「学研」のモジリ………判り易いですなぁ(^^)

倶楽部メモ(369) 平成19年 6月 2日〜 6月 9日

投稿者 ホエ7030
投稿日 2007年 6月 2日(土)12時33分42秒
タイトル 38.1豪雪・他
>クモイ103 様

 先日ご紹介したバラバラな所属区の客車による編成の出現要因に関するご推測、「なるほど」と思いました。
荷物列車や季節臨などでは良くあることですが、定期の急行であのように著しい例は本当に珍しいと思い、
興味を持っていました。
38.1豪雪の後の38.2.12に尾久客車区を訪れた際には、豪雪の救援列車に使用された客車群が留置されていて、
その中にスハ3325(函ハコ)とオハ6247(函ハコ)を発見して外観と室内を撮影しましたが、
スハ3325の中央部の窓には「豪雪救援作業列車」の張り紙がありました。
 「編成記録の紹介を」とのことですが、調査されたY.S.様の了解をいただいておりませんし、
調査時点の2カ月前のS37.10.1現在の所属と異なっているものが数両含まれており、
この2カ月間の移動の調査も行なっておりませんので、詳細の紹介はご容赦ください。
 同氏が調査された気動車列車の中にも所属がバラバラのものが多数あり、
最高にすごいと思われるものは、S39.3.19の403D「第1蔵王」で、
10両編成の所属は、鹿カコ×2、分オイ、米ヨナ、大ミハ、名ナコ、千チハ、新ニイ、仙コリ、秋カタと
9カ所にも及ぶものです。
 手許にあるS53.10.2改定の水戸局の気動車運用表を見ますと、水戸から4711D「いわき1号」でスタートして
翌日水戸に戻る「気5組」気A41〜気A42仕業(キハ58×2)では、
間合運用で、翌朝の越後線の通勤・通学列車125D(吉田→新潟)の10両編成の1,2両目に組み込まれていますので、
旅先で思いもよらない列車に出会うこともあるかと思いますが、上記「第1蔵王」の例は想像を絶するものですね。

投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月 2日(土)20時45分43秒
タイトル 気動車の寄せ集め
>ホエ7030様

 サンパチ豪雪での国鉄の苦闘は、市販のビデオで見ることが出来ますが、それは壮絶なものだったようですね。
私は物心つかぬ幼児でしたので、ニュースなども全く記憶にありませんが…(^^;
 編成記録非公開の件、了解いたしました。

 403D「第1蔵王」は、これまたものすごいですね。
理由としては、雪害などによる運用の混乱以外に、2つの可能性が考えられると思います。
(1)S39.3.19といいますと、453系電車の増備で上野−仙台間急行が全面電車化された
39−3ダイヤ改正の前日でした。
翌3月20日の改正では、気動車急行「蔵王」の系統にも増発などの変化があったようです。
改正前に各地から転入して、標記が書き換えられていない車両があったかもしれません。
(2)またこの壮絶な寄せ集めぶりは、当時の気動車特有の事情が絡んでいた可能性もあります。
ここをご覧の若い方々はご存知無いかもしれませんが、この頃の気動車は“産めよ増やせよ”の大増備、
ダイヤ改正に合わせて一度に作っていたのでは間に合わず、年間休み無く作り続けて、
出来た分からどんどん臨時列車などに投入していきました。
その典型例が毎年夏に海水浴臨時列車を大増発していた房総地区で、
秋のダイヤ改正用として全国に新製配置される気動車を「お先に拝借」し、
形式も所属もバラバラのなりふり構わぬ凸凹編成で殺到する海水浴客をさばいていました。
くだんの39−3改正で、急行形気動車に一番動きのあったのが、
この「蔵王」をはじめとする上野発着の東北・奥羽・磐越西線系統でしたから、
一時的な車両不足で他の地区の新製投入車を借用した可能性も考えられますね。

投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月 2日(土)23時37分55秒
タイトル 「越路」の教訓
 国鉄史上空前絶後の106時間21分という大遅延を記録した、昭和38年1月23日新潟発上野行き704レ急行「越路」。
この列車を発車させたことの問題点について、鉄道ピクトリアル第304号(1975-3)で瀬古龍雄氏が次のように指摘しています。

−引用−
 たしかに23日午後は新潟では無風であったが,新津ではすでに10m以上の南東風が吹き,風雪でかなり荒れた状態であった.
新津は気象的にかなり問題のある所で,阿賀野川を吹き抜ける南東の局地風(いわゆるダシの風)の実によく吹く所である.
新津で15〜20m程度のダシの風が吹いても,新潟三条では無風ということは珍しくない.
しかも,冬場にこのダシの風の吹くときは,その後北西の季節風をともなった吹雪の前兆になることが多い.
 新津の風雪ではとても越路を受けとれる状態ではなかったので,新津駅では一旦断ったものの、このくらいの風で
(新潟ではダシのことはわからない),何だ頑張れということで無理に新潟を発車させたことが悲劇の始まりともいわれている.
−引用終わり−

 瀬古氏は「越路」の発車を批判する立場で論じているので、この時の新津と新潟のやりとりが
実際にはどのようなニュアンスだったのかは、一歩引いて読み解く必要があるでしょう。
しかし、輸送を守る現場同士でぎりぎりの判断のせめぎ合いがあったことは容易に察せられます。

 実は瀬古氏はこのあと、青函連絡船洞爺丸の沈没事故を引き合いに出し、その教訓が生かされていなかったと論じています。
洞爺丸の場合も、一旦弱まった台風15号が勢力を盛り返してすぐそこに迫っていることを知らず、
「無理に」出航したために起きた悲劇…という点では一見似ています。
しかし、瀬古氏が触れていない大きな違いは、洞爺丸の場合は「危険の情報」を現場が知る術が無かったことです。
それは当時の気象観測技術の限界でした。洞爺丸の出航は、その時現場が得ていた情報から適切に判断した結果であり、
悲劇はその情報自体が不完全だったことにありました。

 「越路の発車」の場合、「洞爺丸の出航」と違って、危険の情報はしっかり新津駅から新潟駅に伝えられていたようです。
であるならば、情報を受けてからの「判断」に問題があると見るのが自然でしょう。
そこに「運休は最大の恥辱」という意識が働いていたとすれば、そこを反省点としてその後雪害対策を見直した国鉄の対応は、
まことに理にかなった大きな改善であるように思います。

投稿者 103列車機関士
投稿日 2007年 6月 5日(火)23時08分37秒
タイトル ありがとうございます
ホエ7030様
有難う御座います!
編成記録は私、大好きで御座います!興味深い編成記録のお話しありがとうございます。
「越路」のお話も大変興味深いですね!
「越路」といえばEF57を連想してしまいますね・・・・
あの列車ももそのうち再現したいと思います!

投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月 6日(水)23時05分15秒
タイトル 「越路」の模型化
連投失礼しますm(_ _)m

>103列車機関士様
> 「越路」といえばEF57を連想してしまいますね・・・・
> あの列車ももそのうち再現したいと思います!

 高崎・上越線系統は、昭和31年の東海道線全線電化でEF58が召し上げられ、EF53・EF57の天下となっていましたが、
36年頃に一部のゴハチが戻ってきたようです。そのうち41号機と52号機はなんと青大将塗色でした(^^)。
 当時の「越路」の編成、実は私も興味ありありです。
なぜって、上りは食堂車がついていたから!(下りは「佐渡」に連結)
 昭和37年6月から約1年間だけ存在した、オハシ30つき上越客車急行だったのです。
そんなのが私の幼少時、実家の近くを毎日走り抜けていたかと思うと、
やっぱり模型で再現するのが漢ってもんじゃないですか(違)。
今のところ詳しい編成記録にお目にかかっていないので、まだ当分先になると思いますが…

投稿者 バンブー
投稿日 2007年 6月 7日(木)17時19分28秒
タイトル 「越路」の編成
>クモイ103様
急行「越路」704列車の編成についてですが、Googleで「越路 編成 オハシ30」で検索すると出てきますが
キングスホビー様のホームページ http://www1.odn.ne.jp/kingshobby/ で
「製品紹介」→「客車の製品29」と進むと、オハシ30組み込み当時の
701列車 急行「佐渡」
704列車 急行「越路」
の編成表が掲載されています。
さすがに車番までは記載されていませんが、オハシ30を連結した編成、確かに魅力的ですね。

投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月 7日(木)21時41分53秒
タイトル Re:「越路」の編成
>バンブー様
 ご親切にありがとうございます。
 キングスホビーの客車キット、私はホームグラウンド(笑)の某津田沼Y店の製品と並んで愛用しております。
キングスの客車シリーズは、HPにもキットの説明書にも詳しい実車解説が載っていて、読むだけでも面白いですね。

> さすがに車番までは記載されていませんが、
…まあこれはあくまで「所定編成」ですからね。
イレギュラーが日常茶飯事だった一般型客車列車のこと、実際の「編成記録」とは区別して考えるのがよいかと思います。
 で、べつに所定編成でも構わないのですが、
ここまで話を振ったからには、やっぱり1月23日の特定ナンバーでいきたいぢゃありませんか(爆)。
44年前のこの日、この列車に乗車し大変な目に遭われた方々には申し訳ありませんけど、どこかの本に載ってないかな…?

投稿者 ホエ7030
投稿日 2007年 6月 8日(金)11時06分50秒
タイトル 「越路」の客車
>クモイ103 様
 「今は無き魅力的な客車列車を、模型の世界で再現したい」と言うお気持ち、私も全く同じ思いを抱いている一人ですが、
今のところ、なかなか時間がとれないため、キット(1/80)の山を築いてしまっている状態です。
 話題の上越線701・704レは、我が常磐線の昼行急行「みちのく」を少しコンパクトにしたような編成で、
しかもオハシ30が入っていると言う模型化には持ってこいの列車ですね。
 S38.1.23の704レの編成記録は分かりませんが、先日ご紹介したY.S.氏の調査による701レの記録では、
所属区はバラバラなものの、スロは60と51、ハは10と46(702・703レにはオハ36も使用)、
ハフは45となっていますので、これらの形式で纏められれば良いのではないかと思われます。
 ご承知かも知れませんが、当時の「新ニイ」所属の関係形式の番号を記して見ます。
(資料は「国鉄客車配置表・昭和37年10月1日現在」−鉄道友の会東京支部客貨車気動車グループ発行
--但し、新潟支社については昭和37年11月30日現在)

スロ51--39,51,52,56,57
スロ60--28,29,30
ナハ10--43,44,45,90
オハ36--80,81,82,83,84,85,102,103,104,105,106
オハ46--526,527,528,532,533,534,535,536
オハフ45--1,2,6,7,8
オハシ30--2002,2003
オハニ36--16,17,18,19

投稿者 103列車機関士  
投稿日 2007年 6月 9日(土)22時19分55秒
タイトル こしじとふぶき。。
クモイ103殿、
「越路」を「青大将」が・・・・目がギンギンです。
あ、悪魔のささやき・・私も上越線沿線の育ちで「高二」が絡むと
つい・・
それにしても食堂車ってなんてゴロがいいんでしょうね
「お箸」とか「押し、寿司」とか「梨」、「菓子」なんて・・
でも、見「まはし」て見ても「スハシ」だけは「マシ」な
ゴロが見つかりません(お粗末)
ホエ7030様、
配置表、参考になりました!
「漢」である以上「越路」やってみたいと思います!

倶楽部メモ(370) 平成19年 6月10日〜 6月23日

投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 6月10日(日)22時08分15秒
タイトル Re:「越路」の客車/こしじとふぶき。。
>ホエ7030様
 ご丁寧なレスありがとうございます。
 私は1/150ですが、キットの山はご同様で(笑)。

> 「みちのく」を少しコンパクトにしたような編成
…言われてみれば似た感じがするのは、2形式の特ロを使い分けているところでしょうか。
昭和30年代の後半、この「60+51」や「54+51」などの組み合わせがあちこちで見られた様ですね。
 興味深い例として、昭和35年頃の「十和田」で、54を指定席、60を自由席に使っていました。
この当時60はすでに蛍光灯・アルミサッシ化されており、シートピッチが広い分高級そうにも思えますが、
それでも新しい54の設備が良かったのでしょうか。それとも指定席の定員確保のため…?

 昭和37年の新ニイ所属車一覧、ありがとうございます。
オハ46は全部スハ43からの編入車で、模型上はスハの扉を交換するだけですね。
でもオハフ45はスハフ42の雨樋を改造しないと…。


>103列車機関士様
 ちなみに情報源は、草原社刊「THE LAST RUNNERS Vol.1 北のEF58ストーリー」です。
P.7に、下り上越急行を牽いて日暮里付近を行く52号機(1962.3.18)、
そして上り?高崎線普通列車を牽いて荒川橋梁を渡る41号機(1962.7)の写真があり、
「当時この2輌が淡緑色のままであったようだ」と記されています。
なお、元々上越線出身の41号機は、東海道時代もつらら切りがついていましたが、東海道生え抜きの52号機は、
上越線転属の際に青大将のままつらら切り・汽笛カバー・スノープロウが取り付けられたという異色機でした。

# 知り合いに「岸」さんと「佐橋」さんがいます。
おっと、やはりこの業界で忘れてはならないのが…畏れ多くて書けません(爆)。


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