倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
倶楽部メモSP
磐越西線のD50・DL
D50・DF50牽引の磐越西線客車列車・暖房車の珍標記


倶楽部メモ(379) 平成19年 8月29日〜 9月 7日

投稿者 ホエ7030
投稿日 2007年 8月31日(金)18時21分26秒
タイトル D50の磐越西線
 このところ話題尽きぬ磐越西線ですが、私にとって、磐越西線と聞くと真っ先に浮かんでくるのは、
大好きなD50が牽引する列車の姿です。
初めて磐越西線の列車に乗ったのは中3の夏に猪苗代で宿泊学習があった際で、牽引機はもちろんD50。
次は、高校の地理研の調査旅行で新潟方面に向かう際で、
郡山〜会津若松はD50牽引、会津若松〜新潟はC51牽引でした。
 この2回とも、走行中の列車の窓から前方を撮ったり、途中で交換した列車を数枚撮った程度でしたが、
磐越西線の列車を撮ろうと思って出かけたのはS40年の夏の1回のみです。
それも、国立磐梯青年の家で合宿があった際に、朝早く家を出て、夕方の集合時刻までの時間を利用したものでした。
 当時、郡山〜会津若松間にはまだD50が健在で、その他D51,D60,DF50などが活躍していました。
この合宿の期間中に、打合せのため猪苗代〜郡山間を2往復する機会があり、
郡山でスハ50やスユニ30、ED71の列車(マユ33組込み)などを撮りましたが、
今思うと、中山宿の風景を撮らなかったことが残念でなりません。

 画像は、猪苗代を発車した225レ(コリ→ワカ) D50377(磐) S40.8.17


投稿者 仙コリ@車掌
投稿日 2007年 9月 1日(土)00時03分5秒
タイトル Re:D50の磐越西線
ホエ7030様
貴重な画像ありがとうございました。
撮影された日にはかろうじて生まれている年代の私にとっては磐越西線の機関車といえばED77なのですが…

私の最も古い鉄道の記憶は、熱塩加納の母親の実家に行った帰り、国道49号線で渋滞中の車中から見た、
中山宿近辺のトンネルを抜け、上り勾配を驀進してくる蒸気機関車牽引の貨物列車だったりします。
その蒸気機関車を勝手にD51と思い込んでいましたが、D50だった可能性もあるのでしょうか?

当時小学校低学年で、まだ鉄道好きは目覚めていなかった(自覚したのは中学校に入った頃です)のですが、
考えてみれば私の人生で最も古い鮮明な記憶ですので、それが最初のきっかけだったのかとも思います。

郡山でスハ50やスユニ30・マユ33…もう少し早く生まれていればと本当に思ってしまいます。

投稿者 雑魚
投稿日 2007年 9月 1日(土)14時41分56秒
タイトル 磐越西線 回顧ネタ
▼ホエ7030様:
> 画像は、猪苗代を発車した 225レ(コリ→ワカ)

非電化時代の磐越西線の紹介写真では定番構図ですね。架線や柱が無いと、これ程に
開放的な印象を受けるものですね。

1965年というと、上野〜郡山で山形発着編成と多層建を組むキハ80系「やまばと」が
運転を開始した年で、行先を区別する為「会津やまばと」とも称されました。三年後、
いわゆる「ヨンサントオ」改正では 485系特急「あいづ」に移行。キハ80系の運用は
僅かな期間のみ見られた貴重な代物でしたが、こちらは御覧になられたでしょうか?

磐越西線は、改正の前年に郡山〜喜多方が一括電化されていますが、方向転換を伴う
会津若松は、広域拠点都市の中心という事もあり(かつては、福島県域最大の人口を
誇った模様)列車の運行系統上も、当時から大きな結節点となっていたと思われます。

子供の頃、仙台発着「まつしま」と多層建を組んだ「ばんだい」に乗った印象として、
電車便(当時、電車は特急・急行に限られたと記憶します)の喜多方直通枠は決して
大きくなく、案外、喜多方駅から引込線が延びていた昭和電工の貨物輸送が、電化の
主たる動機か、とも感じますが、これとて会津若松でエンド交換の手間を要しますね。
現在、会津若松〜喜多方の定期電車便は一日四往復です。

上記「ばんだい」は上り便の利用でしたが、郡山手前では、合流する東北線の線路に、
併結相手の「まつしま」が待機していた光景が何か印象的でした。この逢瀬川橋梁は、
仙台以南の複線化が完了した1967年以降も、青森信号所よろしく、なぜか「スポット
単線区間」で残っていました。上記便の待機は、その辺の事情もあるのかも?

往年の磐越西線の名(迷)列車といえば、多層建の極みを尽くした「いなわしろ」が
挙げられますね。自身が会津・只見線に跨った分割仕様で、新潟発着の「あがの」や
磐越東線の「いわき」を含めると編成内容は実に複雑怪奇で、乗客自身、乗車部位の
確認に一苦労する、ある意味「ミステリー列車」状態だった様です(^^)

投稿者 ホエ7030
投稿日 2007年 9月 2日(日)18時41分45秒
タイトル 磐越西線のDF50
>管理人様、雑魚様

 猪苗代発車のD50にコメントをいただき、ありがとうございます。
何の変哲もない列車風景ですが、D50大好きの私にとっては、何度見ても懐かしさがこみ上げてきます。
今思うと、もっと何回も通えばよかったと思いますが、残念ながら、貧乏学生の身分ではなかなかかなわない時代でした。
 この列車を撮った時は、他にもD51やD60の旅客、貨物のほか、
ヘッドマークを付けたDC準急「いわしろ」なども撮りましたが、
思いがけなくDF50牽引の急行を撮ることができました。
 郡山には、1962年の9〜10月にかけてDF50が3両(564〜566)新製配置になり、
およそ5年後の67年7月と9月に米子に転出して行きました。
運用の実態は分かりませんが、磐越西線で活躍する姿の写真を
ほとんど見かけないような気がしますのでご紹介したいと思います。

 2410レ・第2ばんだい(会津若松→上野。郡山から410レ・ざおう2号に併結)
 DF50565(郡) S40.8.17 猪苗代〜川桁


投稿者 雑魚
投稿日 2007年 9月 5日(水)13時57分59秒
タイトル 箱型 DL
▼ホエ7030様:

DF50は、磐越西線でも活躍していたのですね。この機関車は、最晩年の活動域から
四国固有の形式という印象が強いのですが、私が四国を初めて訪れたのは、同形式が
完全撤退した直後の1984年。その様な訳で、山陰方面で活躍したDD54と共に、実際
目にする事も無く消えて行った「幻の箱型DL」という趣です。

同形式を画像検索すると茶色塗装も存在した様ですが、ホエ7030様が目撃されたのは、
通常の赤色塗装でしょうか。色合いから「ブルトレ」ないし12・14系の牽引も、絵に
なりそうですが、かかる組み合わせが 実際に行われたのは、日豊線における「富士」
ないし「彗星」くらいかな。

現存の箱型DLというと、除雪車にも供され、最近では「ばんえつ物語」用の12系を
牽引したDD53が連想されます。形式から、DD54の方が後発という事になりますが、
DD53の製造(僅か三両のみ)が1965年、DD54の量産がその翌年との事。DD53は
除雪の際、飛ばした雪が沿線の民家を損壊する程の高出力が仇となり、量産するには
至らなかったのだとか(^^)

暖冬気味の昨今、この磐越西線を含め、除雪車の出番も相当減っているのでしょうね。

投稿者 ホエ7030
投稿日 2007年 9月 7日(金)12時00分43秒
タイトル Re:箱型DL
 皆さま、台風による影響はいかがでしょうか。
今日上野に帰ってくる「夢空間」の走行写真が撮れなくなったことも残念ですが、
我家ではカーポート屋根の波板が2枚も吹き飛ばされてしまいました。
幸いにも割れず、隣と3軒先のお宅から回収できましたので、暴風雨が収まったら復元しなければなりません。
今春の強風の際には見ている前で瓦が飛ばされ、災害続きでショックです。

>雑魚 様

 私は、箱型DLは結構好きです。
常磐沿線の私にとっては、何と言っても馴染み深いのはDF90ですが、
DF50も、奥羽線や山陰線、四国などで僅かながら走行写真や形式写真を撮る機会に恵まれました。
他に、見たり撮ったりできたのはDD53(観光バスの窓から貨物列車走行中)、
DD54(停車中の列車と形式写真)、DF91(形式写真)、
DF93(借入れ前の展示、電車の窓から総武線の貨物および勝田〜水戸工場間社員通勤列車牽引)などです。

 DF50は、落成時はすべてブドー色だと思います。
DLの塗色が朱色とグレイに白線になったのは、多分1963年度後半か64年度あたりからだったと記憶しています。
私が猪苗代で撮ったDF50は、この新塗色になっていました。

 DF50は水戸工場でも製造されましたので、落成出場時に勝田駅や水戸機関区に居るところを何度も目撃しましたが、
私にとって忘れられないのは、DF50の落成直後の、国鉄への引渡し試運転に乗せてもらったことです。
もう40年以上も前のことで時効でしょうが、父の知り合いの国鉄の監督官(試運転に立会う立場の方)の計らいで、
水戸〜土浦を往復しました。
乗り心地がまるで電車みたいに非常に良く、途中で軸受けの温度を測ったり、加速性能を調べたりしていたのを覚えています。
職員が何人も乗っていましたが、ある機関士が、ノッチをいきなり最高レベルまでもって行ったらすごい加速でしたが、
先輩格の職員に「飛びノッチをやっては駄目だよ」と叱られていました。
この時初めて、閉塞信号機の番号が第4閉塞、第3閉塞・・・・と言うように逆の順番になっていることを知りました。

 現在では考えられないようなことですが、水戸駅構内入換えの8620に30分間も乗せてもらったこともありました。
(どこかに掴っていないと振り落とされそうな乗り心地でした。)
 長万部でニセコの前補機になるC62を撮っていたとき、機関士に「築港まで乗って行け」と誘われたこともありました。

 ↓ 432レ DF901+マヌ3429 S37.11.20 小木津〜日立


投稿者 ホエ7030
投稿日 2007年 9月 7日(金)13時07分45秒
タイトル 訂正です
 DF90のお供の暖房車の番号は、3429ではなく3423です。お詫びして訂正いたします。
 この暖房車の所属は「水ミト」のはずですが、相当長い期間「東オク」のままになっていました。
(最後まで書き換えられかったかどうかは不明)
 しかも、「東マヌ」「オク3423」と読めるような標記の仕方でした。

倶楽部メモ(380) 平成19年 9月 7日〜 9月12日

投稿者 雑魚
投稿日 2007年 9月 7日(金)15時32分13秒
タイトル 電化区間
> 常磐沿線の私にとっては、何と言っても馴染み深いのはDF90ですが、

1960年代生まれの私にとって、同形式は「大昔の機関車」という程度の印象でしたが、
改めて調べると、元々は常磐線専用との位置付けだったのですね。後年の秋田転属は、
さながら佐竹公の移封を連想させますが(かかる経緯から、十数年前に、秋田市内の
老舗高校と母校が交流を始めました)転出後は、保守上の問題などから、入替運用に
留まったとか。

御掲出の画像は、茶一色塗装と見受けますが、個人的には「DF90=キハユニ風」と
落成時の赤基調塗装を連想します。赤基調→茶一色→赤基調→茶一色→国鉄標準色と、
僅か十年程度の運用期間中、煩雑に変更された様ですね。

DF93について画像検索した処、房総西線での運用振りが「鉄道ファン」1962年10号
表紙で紹介されていますね。一見、アセアンの何処かと勘違いする様な雰囲気ですが、
上記DF90の塗装変更の契機の一つに、1958年「アジア鉄道首脳者懇親会」鉄道展が
挙げられる点を勘案すると、意匠において、かかる作風を意識した可能性も感じます。

> 勝田〜水戸工場間社員通勤列車牽引

私が見かけた最晩年(90年代前半)の陣容は、凸型BLが 東急(?)ステンレス車を
牽引したもので、毎年初夏の工場開放では、一般客の輸送にも供されていましたっけ。
私も日製勤務の友人の招待で赴きましたが、海外向け車両を扱う関係もあって、半ば
草生した多重軌道が林の合間を怪し気に錯綜する様子は、正に究極の「トワイライト・
ゾ〜ン」とも言うべき代物でした。

> S37.11.20 小木津〜日立

電化区間が高萩まで北上した直後ですね。東海道線や高崎線の様な「橋渡し」方式に
拠らない複線区間の架線柱が実用化されたのは、常磐線に限らず、この頃からですが、
電柱の太さ、碍子の肉厚、架線吊箇所の形状、どれをとっても60年代という印象です。

ただし常磐線や水戸線など交流路線では、変電施設前後で、千歳線や羽越線村上以北
よろしく、やたら重厚な碍子を擁する変則箇所(例えば日立市滑川町付近)も見られ、
子供心にも、交流区間の何たるかが判った様な印象でした(^^)

投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 9月 9日(日)10時07分6秒
タイトル 暖房車の標記
>ホエ7030様
> しかも、「東マヌ」「オク3423」と読めるような標記の仕方でした。

 昭和30年代の後半まで、そのような標記が残っていたのでしょうか?
 その標記方式は、戦後の一時期、客車全般に見られたものですね。
所属「東オク」と車号「マヌ3423」のそれぞれが上下二段で書かれ、
それらが隣り合っているために、その様にも読めてしまいます。
 ピクトリアル誌第224号(1969-5)の「質問に答える」によれば、
昭和27年8月に図面が改定され、上段に所属/下段に車号という方式に変わったとのことです。
その当時、尾久客車区の所属標記は「東ヲク」であり、「東オク」となったのは昭和32年1月以降ですから、
「東オク」の二段標記は本来存在しない筈のものです。
しかし、暖房車は客車の一員でありながら機関区に所属し、検修なども他の客車とは別に行われていたらしいので、
客車に関する標記規定の改定が現場に徹底しなかった…と考えるのが自然でしょうか。

投稿者 ホエ7030
投稿日 2007年 9月 9日(日)17時57分50秒
タイトル Re:暖房車の標記
>クモイ103様

 こんにちは。車両の標記も、たまには変わったものや誤記などを発見することがあります。
私は、特に注意をして見ているわけではありませんが、
これまでに、形式**○○のところで、スロ42(オロ422)、オハ32(スハ322476)、
コヤ26(コヤ2600)、ワム25000(ワフ25000)などを発見しています。
木製のナエ17100形では、形式を17200、17300に、ナル17600形でも17700としているものが
多数見られました。
 先般発売された「RMライブラリー」誌「鋼製雑形客車のすべて」を見ますと、側面中央の記号番号のところで、
本来「コヤ2600」とするべきところを「コヤ26 00」と間を空けて記されている例が何点か見受けられます。

 ところで、DF90機のお供のマヌ3423側面の所属と記号番号の標記の仕方は、
戦後の一定期間の標記に似てはいますが、どう見ても「東マヌ」、「オク3423」に見える書き方でした。
不鮮明ですが写真を添付します。
 S42年に米原で撮ったマヌ3420の側面標記の場合は、左から順に「マヌ、名マイ(二段書き)、3420」と、
記号と番号の間に所属が記されている珍標記でした。


投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 9月 9日(日)19時24分32秒
タイトル Re2:暖房車の標記
>ホエ7030様

 えーっ、これは本当にどう見ても「東マヌ」、「オク3423」に見えますね。
まさかこの様な変形標記があったとはつゆ知らず、早とちりで見当違いのコメントをしてしまい、失礼いたしました。

 車体標記の誤記は、仰る通りたまに存在するようですが、
まさかオロをスロと間違うような基本的なミスがあるとは驚きです。
鉄道雑誌の記述には客車の重量記号を誤ったものが散見されますが、国鉄の現場もやっていたのですね。
他の例も興味深く、特に「マヌ、名マイ(二段書き)、3420」は傑作(怪作?)ですね。

 そういえば昭和50年代でも、山陽地方の某工場で改造され新ニイに配置される事業用電車が、
「新カヌウシシ」(上沼垂運転支所?)という所属標記で出場したという“事件”がありましたっけ(^^;。

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