第三章


「ねえ、今のって……」

「待って、レイネ。逃げるのが先」

 言いかけたレイネの言葉をアレフはすぐにさえぎり、窓を開ける。とにかく急いで事を運ばねば、いつ彼らが戻ってくるかわからないのだ。

 運のいいことに、ここは一階である。それでなくても身の軽いハーフエルフなのだから、降りることに苦労はしなかった。二人とも大した音もたてずに、地面に着地する。

「とりあえず、誰もいなさそうな方に逃げよう」

 アレフはそう言って、レイネをうながす。そして二人は足音さえも極力たてないように注意しながら、走り出した。

「こおんばんわ、おばあさん」

 思わず節をつけたくなるような口調でアレフが言う。その表情は、これ以上ないくらいににこやかだ。……ただし、内心と同じとは限らないのだが。

「あ、あら、坊や。お早いお帰りで」

 対する老婆は、動揺を隠しきれずにそれでも返事をする。

「荷物、返してもらいに来たのよ。まさかもう処分した、なーんて言わないわよねえ?」

 レイネがにっこりと笑って言う。こちらもまた、内心と表情が必ずしも一致しているわけではない。

「も、勿論ですよ。ここにこうして……」

 老婆はカウンターの中から二人の荷物を取り出す。二人はそれを受け取った。が、しかし。

「まっさかこれで全てが済む、なーんて思ってないよねえ?」

「冗談じゃ済まないこと、いっぱいしてくださったものねえ?」

 アレフとレイネはカウンターによしかかるように、両側から老婆に詰め寄る。

「あ、あの、なにをお望みで?」

 老婆はひきつった笑みを浮かべて問う。幾人かの客が、何事かとカウンターの方を見つめる。

「とってもおいしい料理を食べさせていただいた上に、あーんなとこまで連れてってもらっちゃ、ちょっとねえ」

「笑い事じゃ済まないものねえ」

「あ、あの、つまり……?」

「わっかんないの?」

 アレフはその顔からすっと笑みを消すと、更に老婆につめよった。

「い・しゃ・りょ・う・は?」

 ……つまりはこういうことである。

 まんまと逃げ出したあと、誰にも目につかないところで息を整えた二人は、新しく宿をとろうにも荷物さえないことに気づいたのだ。勿論、幾ばくかの路銀は懐にしまい込んでありはするが、それでも荷物の中にある路銀をあわせないことには寝場所を確保することすら難しい。そこで、結論。このまま泣いて引き下がっちゃ洒落にならない、もらうもんはもらいましょう、ということになったのだ。もとよりけしかけて来たのは向こう、多少のことをやっても犯罪にはなるまい、というのがレイネの論である。二つ返事で賛同したのはアレフであるが……。

「お若いの……」

 カウンターの奥の方から、主人が歩み寄ってくる。

「世の中には理不尽なことがいろいろある。今回のことだってそのうちのひとつじゃ。こういう困難を乗り越えてこそ……」

「おじいさあん?」

 主人の口上を遮って、レイネが最大級の笑みとともに伝える。

「開き直ってんじゃないわよ、ボケがまわってんじゃないの?」

 その表情とはまるで違い、その声にはドスがきいている。

(こ、怖い……)

 アレフは思わず主人にさえ同情しそうになる。が、そんなことはおくびにも出さず、主人の方を向いて言った。

「開き直りや理屈でごまかそうったってそうはいかないよ。あんたらがやったのは立派に犯罪だからね」

「それを言ったらおまえさん方も……」

「金で済ませてあげようって言ってるんだよ? なんなら、街中に言いふらしてやってもいいんだけどね、俺達は」

「営業、難しくなるわよねえ?」

 ……その後、主人も老婆も泣いて謝り、二人が宿を二週間ほどとってもまだあまりあるほどのお金を差し出したのは、言うまでもない。

 

 

……光坂、第十二回……

 


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