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「報復された旅行客 − 鷹橋晋一の場合−」
【1】


「スタンドは無いのか、この山には…イヤなルートを選んでしまったな。
ひとまず、この峠を越えないことには始まらないが…雨もそろそろ…」


_真夏日もいよいよ終わりに近づいた頃、私、鷹橋晋一はめでたく3日間の有給休暇を手に入れました。
安月給の割にとにかく多忙な職場でして、これは職場にとっても私にとっても大変なことです。
_不謹慎にもその休暇を利用して、最近ご無沙汰にしていた、「ツーリング」に行こうと考えていたのですから手に負えません… 失礼。私のことでしたね。
_ツーリングといっても職場に仲間がいるわけではありません。40に手が届きはじめた同僚たちは、私をさしおいてみなタイヤ4つの車にどっかと落ち着いてしまいましたから。私のツーリングとは、のんびり独りで見知らぬ山を旅することなのですよ。
_「家族の心配」…ですか? 確かに、うちには手のかかる女房と、これまた輪をかけて手のかかる娘がふたりおります。でも、みんな義母の家に行かせてありますから、何の気兼ねもいりません。今日と明日、明後日は私ひとりだけの時間です。いや貴重ですよ。職場からも家族からも開放されるこの快感、あなたにおわかりですか?
_もっとも、今ご理解いただけなくとも、いずれ妻子を持てばおのずと私の心境はご理解いただけることでしょう。
_と、いうわけで、有給初日早朝から、某県めざして愛車"TW250"を走らせました。このTWというバイクはとにかく太い後輪が悪路にたいへん強く、山登りにはうってつけのオフロード車でして、もう7年も乗っております。ただ、前述のとおり、ツーリングはとんとご無沙汰です。最近職場では残業続きでして…。
_部長を轢くことでも考えながら運転しますか…おっといけませんね)
_しばらくこれまたご無沙汰の緩やかな山道をのんびりと走っておりました。後続車がどんどんと私を追い抜いていき、狭い道ではひたすらクラクションを鳴らされますがますが、そんなものはおかまいなし。自分のペースで走れるのが一人旅の何よりのメリットです。それにTWは、中低速向けのエンジンを搭載しているので、かえってスピードを出すとガソリンを食ってしまってしょうがないんですよ。
_クラクション鳴らした連中が私の見ていないところで谷底に転落しますように…)

_しかし、雲行きがあやしいです。 残業でもさせられるかのようですよ。あの入道雲は課長のボサボサ頭に良く似ていますね。

ポツ…ポツ… パラパラ…
ザザザザザーー

_いよいよ目的の某県に差し掛かろうとした頃、にっくき雨は降ってまいりました。雨具の用意はしていたものの、不意の雨です。夕立です。雨合羽を着る間に、随分と服や髪が濡れてしまいました。デイパックの中身にはツーリングマップ等の紙類もありましたが、あらかじめビニールに包んでおきましたから心配はありませんでしたけれど。
_しかし、私にふりかかってきたものは、雨だけではありません。ツーリングの最大の敵である、「ガス欠」もふりかかろうとしていたのです!しかも示し合わせたかのようにこの道にはガソリンスタンドが見当たりません。
_燃費のことも一応考慮はしてあったのですが、どうも山道というものは必要以上にガソリンを消費してしまうようですね。今来た道を引き返して覚えのあるスタンドで給油するか、峠を越えて市街地のスタンドを探すかのいずれかです。
_「これだからイナカは…」
_…いけませんね。こういった不便な思いをしてこそ、旅の味わいが深まるというものです。そして都会に帰って、改めて「忙しくも便利な環境」というものの有難さを知るというのも旅の目的のひとつではないでしょうか。
_もっとも、今引き返して、そのスタンドの営業が終わっていないとも限りません。山の中のスタンドの営業時間は短いというのが定石です。かといって、麓や市街地のスタンドまで行けるほど、残りのガソリンはあるのでしょうか? 久しぶりのツーリングです。正直どちらを選んでよいのか判断に困りました。
_「引くか…進むか……あるいは…」
_考え込んではことば通り日が暮れてしまいます。決断ではなく、「即断」を迫られていました。そんな折り、雨合羽ごしに雨にうたれながら、さっき来た道とこれから越えるであろう峠道とを交互に見渡していると、横道とそこに立つ小さな看板が見つかったのです。

『井中川津鉱泉郷 →1km』

_聞いたことのない名前です。地図に載っていないところを見ると、よほど無名の場所なのでしょうか。地図上ではこの道も車道かどうか疑わしい表記をされています。実際に見てみると十分車の通れるところなのですけれどね。とにかくこれは思わぬ発見でした。正直今日泊まる宿の手配を済ませていませんでしたから。

_「給油は…明日にいたしますか…」
_私、鷹橋晋一は、この山で…「井中川津鉱泉郷」で…一晩を明かすことになりそうです。

− 井中川津への道は降りしきる雨のせいか、神秘的な様相を呈していました −


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