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「報復された旅行客 − 鷹橋晋一の場合−」
【2】


_井中川津鉱泉郷は、そのたいそうな名前とは裏腹に小ぢんまりとした民宿村でした。地図に載っていないのも無理はありません。また、雨のせいもあって地元の買い物客もほとんど見当たらず、旅行客にいたっては、私以外にいるかどうか疑わしいものです。お世辞にも観光地とは言えそうもありませんね。
_いえ、私自身も観光目当てではないのですけれど。
_表通りらしき石畳の路を歩くと、明かりのついている宿が数件だけ見当たりました。いずれも築20年はあろうかという古い建物ばかりです。こういった雰囲気は好きですね。あえて欲を言うならば、行き交う浴衣の宿泊客が風景の中に欲しいものですが。
_さて、今日の宿はどちらにいたしましょうか。雨にこのまま打たれているのも辛いですからね。傘を用意しているわけではありませんのでそろそろどちらかに…。

『鉱泉民宿「おおみ」』

_民宿の「おおみ−大海−」さんですか…こちらにいたしましょう。表に掛かった看板の古めかしさが気に入りましてね。
_それでは、 …ガラガラガラ…
_「ごめんください。一晩お世話になりたいのですけれど」
_これまた古めかしい戸を開けますと、すぐさまご老人が玄関口まで出迎えてくださいました。宿主さんでしょうか?
_「ようこそお越しくださいました。お泊りでございますか? お部屋は空いておりますよ」
_部屋は空いておりましたか。そうでしょうとも。世間は学校の無いこの時期とはいえ、今日は平日ですから。団体でも来ない限りはそうそう満室にはなるはずはありません。たとえこのような民宿でも。
_と、いうよりは正直なところ私以外に宿泊客もいないことでしょう。
_「ではお世話になります。突然お邪魔してかえって恐縮ですね。本来ならばお電話差し上げるべきところを」
_「いえいえお気になさらずに。電話などいただいたところで……。そうそう、お風呂はすぐにも入れますから、お荷物を置いたらぜひどうぞ」
_「それではさっそくお風呂をいただきます…」
_お部屋に案内してもらうと、その風格に息をのみました。黄色く色あせた畳は有休の…ではなく悠久の時を感じさせ、壁に掛けられた油絵はこの部屋に似つかわしく茶や深緑の色を中心に描かれた質素な物です。
_もっとも夕立かと思われた雨がまだ止む気配も無く、明かりを灯さないとこの六畳間は薄暗く感じます。掃除は行き届いて古いながらも綺麗な部屋ではありますけれども。
_とにかく、お風呂に行きましょうか。手ぬぐいと洗髪料を出して…。あ、ヒゲ剃り忘れてしまいましたね。明日どこかで買いましょう…。
_「お風呂はこちらでございますよ」
_おやじさんに案内されてそろそろと宿を歩いて行きます。長年旅人の行き来した階段は既に木目が浮き出し、それが独特の風格を感じさせますね。素敵な歳のとりかたをしたものです、この宿は…。
_ミシミシときしむ階段を降りてゆくたびに、足元からお湯の湿り気を感じます。少々心配ですね。まだまだ足腰は弱ってはおりませんが、もし足場が崩れたらと思うと…。
_と、こういった建物は、たいてい丈夫なのですよね。昨今の手抜き工事の目立つ建築方式に比べ、丈夫な木材を用いて、しっかりとした組み上げ方をされている例が多いのです。というわけなので、「これだからボロ宿は!」などと、安易に申しては…いけません…よ。
_浴室の戸をガラガラと開けると、これまたしっかりと組み上げをされた浴槽が目をひきました。一瞬、 「こんな辺鄙な場所にあるはずがありません!」 と疑ってしまったぐらいです。
_「ほほぅ、古代ヒノキですか。これはご立派ですね」
_「昔から使っております。手前味噌ながら素晴らしい木材ですよ。そのうえお湯も体によいんです。『肌が若々しくなった』とおっしゃるお客さんもいらっしゃいました。『りゅうさん何とか』という肌に良い成分が含まれてるとききましたから。ここの温泉には。
_…と、温泉と言ってはいけなかったのでした。鉱泉とか言うんですよ。水温が足りないからとかなんとか、役場の人がそんなことおっしゃっていましたが、詳しいことは私ではわかりません。
_でも、体によければそれでよいでははないですか、温度とか成分とかで「温泉」か「鉱泉」か分けるなんてこと、実にくだらないことですよ。残念なことに、その呼び名の違いだけで旅行客の方々は温泉に行かれるのですけれどね…」
_おやじさん、風呂は本来、『呼称』などで選ぶものではありませんよ。沸かしたお湯だって元の湧く水さえ良ければ遜色ないものなのですから」
_「そういってもらえると有り難いです。ここでご自慢できることは、この風呂ぐらいのものですから…ハハ…ハ。
_では風呂からお上がりになったらお呼びください。これといったものは何もありませんが、お夕食をご用意させていたしますので」
_「それはどうも、おそれいります。では、お風呂いただきますよ…」

ガラガラガラガラ… ピシャッ!

_閉まる戸も実に古めかしくて荒い音を響かせています。味わいのある響きですね。マンション暮らしが板につくと、こういった静物の奏でるサウンドを鬱陶しいと思いがちです。
_「ご近所の迷惑」という理由があるから仕方の無いことなのですが、やはり戸の閉まる音はさっきのようでなくては物足りないですね。古いですか?考えが…。
_音はともかくとしても、おやじさんは感じの良い方でした。看板だけで宿を選んだのは少々軽率かもしれませんでしたが、結果がよければそれでよいですよね。
_そういえば、「温泉」と「鉱泉」のお話をされていましたが、鉱泉だからといって、別に気にするほどのことではないのですけど…。観光客はやはり「温泉」を選んでしまうのでしょうか?
_ちなみに「温泉」とは、水温が25度以上あり、温泉に必要とされる成分(マグネシウムや、ナトリウムなど)のいずれかを含有する湧水につけられる呼称です。その基準を満たしていない湧水は、「鉱泉」と呼ばれることが多いようです。では、話を戻しましょう。
_おやじさんのおっしゃること、湯に浸かるとなおさら良くわかります。ここのお湯の肌触りはそこいらの温泉とは「格」が違います。純度の高い蜜のようにとてもなめらかで、私のガサガサの肌にも心なしかつるつるスベスベとした感触が戻ってきたように思えます。
_…すみません。男性が申し上げることではありませんでしたね。しかし、このお湯の気持ちの良いこと。この、手ぬぐいをとおして…

って…
「手ぬぐいがぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

_手ぬぐいは、私の手の内で、そして腰のあたりで、どろどろに溶けておりました。まるで手洗い場の紙のように…。
_私の腰に巻かれていたもの、そして、浴槽の中で体をこすっていたもの、いずれも正真正銘の「手ぬぐい」でした。英語で言うなら"Towel"でしょうか…(作者注:"Tenugui"で通じる例もあるようです)もうすでに、見る影も…ありません。
_「私としたことが…手ぬぐいを浴槽に…」
_と、気づいた頃にはすでに遅く、私の体にも…
_「イタタタタタタタタタ……!!!」
_は、は、肌が溶ける!!!!! た…助けてくれ…
_体が…体が焼け焦げる…


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