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_目が覚めた場所は、荷物を置いた六畳間でした。すでに日も落ち、雨音も静かです。
_「お客さん、大丈夫ですか? お湯加減が気になりまして戻ってみれば…叫ぶ声がしたものですので」
_「あ、ありがとう…ございます …イテテテテ…」
_おやじさんが助けてくれたのですか…、いやまったく命拾いいたしました。おそらくはそのとき、たわんだ腹をお見せしてしまったでしょう、お恥ずかしい限りですね。
_(尻にホクロが5つあるのを見られていないとよいのですが…)
_「そういえば、お客さん手ぬぐい持ってお入りになったはずなのに、どこにも手ぬぐいが無いのですよ。おかしいことなんですけどね。この雨じゃ猫や猿もそうそうやっては来ませんし」
_(冗談じゃない。猫や猿がヒノキ風呂なんて贅沢な話ですよ…まったく…)
_「ははははは…。へ、変な話もあったものですね。ア、アイタタ…」
_(溶けたなんてこと言った日には、すぐさま追い出されるに違い有りません。何しろ宿主ご自慢の湯ですからね…イテテ…)
_「それよりも火傷はまだ痛みますか?幸い塗り薬が多目にあったので大事には至らなかったようですが…
_追い炊きのし過ぎですね。おそらくは…」
_「いやはやお見苦しいところまでお見せしてすみません。おやじさんが来てくださらなかったら今頃…」
_(この世に居なかった…なんて言った日にはどうなることでしょう…?)
_「気をつけるんですよ。疲れが溜まっているとつい不注意で思わぬ失敗をすることもありますからね。普段のお仕事が忙しいのではないですか?
_あ、つい私としたことが説教じみたことを申してしまいましたね。これは失礼を…。
_では、遅くなりましたが、お夕食をお作りいたします。出来立てをいただいて欲しいのでまだ下拵えの段階で留めて有りますからご心配なく」
_「そ、それは有難いことです。どうかよろしくお願いいたします…」
_思い出すのも恐ろしい話ではありますが、確かに私の手ぬぐいは湯に溶け、肌は火傷をおったかのように腫れあがっていました。「肌がすべすべになる」とはことばの言いようで、魚の目やタコ、果ては指紋までがずいぶんと薄くなっていたような気がいたします。
_科学的にはまったく根拠のない、というより常識で考えてはいけないのでしょうが、「浴槽に手ぬぐいを入れてはいけない」
という、旅先でのマナーに背いたことを察知したお湯の…その中の硫酸成分が分解され、「硫酸」として再組織化され、この私に襲いかかったのではないかと思います。そう考えるよりほかありません。
_できることなら、猫か猿の仕置きにして欲しかったものです… と、いうのは我が侭でしょうか?
仕置きを受けた身としましては…。
_しばらくして、見慣れない山菜やキノコなどがふんだんに使われた料理をいただきました。素朴な器とあいまって、「いかにも」といった山里の食事でしたね。
_しかし、味に関しては「美味」というほか覚えておりません。機械的に食べていたような、そんな気もいたします。これでは折角のご馳走も社員食堂で食べているようなものですね。
_念のため申しておきますが、うちの社員食堂の辻さんの作る昼食は社外でも人気があるそうで、味に関してはまったくケチのつけようがありませんので。いつかはいらしてください。もっとも連日満席続きで食べる時間が殆ど無いでしょうが。
_では、おやすみなさい。
_寝返りをうつのが…心配ではあります…
ア、アイテテテテテテテ…
_「では、道中お気をつけてください」
_「は、はい。どうもお世話になりました…アイテテ…」
_すっかり雲も晴れ、雨上がりの鉱泉郷のたたずまいがキラキラと輝いていました。雨露の美しさは古ぼけた建物にこそ映えるものですよね。
_そんな感慨にひたっている中、おやじさんが言い残したひとこと…。
_「たとえ『温泉』でなくとも、手ぬぐいは浴槽にいれてはいけませんよ…」
「!!!」
なぜ、そのことを…おやじさんが…?
_石畳の路を重い足取りで歩き、もと来た道へと戻ります。昨日は雨だったせいもあり、視界など無きに等しかったのですが、今はくっきりと遠くの山やまが見て取れます。その雄大さがかえって私の火傷に、心に苦痛を与えますね。ヒリヒリと…
_「ここがもとの道ですよね。さて、引き返しますか。 スタンドもそろそろ開くでしょうし…」
_TWを切り返し、もと来た道にハンドルを向けます。おっと、こういった山道では対向車・後続車に気を配らなくてはなりませんね。
_前、後、右、左……と…。
「おや?」
_あの、鉱泉郷の看板が見当たりません。それどころかさっき来た道を改めて見ると、どう考えても自動車の通行できる道ではなく、泥と荒い砂利ばかりの目立つ細い林道です。確かに、私のTWがつけた自動車並のタイヤ跡がくっきりとは残っているのですが、あまり好んで走りたくはない道です。雨が降っていた昨晩なら、なおのこと…。
_「あの道は…、あのまちは…、
そして、あの宿は…」
_地図にも載っておらず、自動車すら入ることのできない『井中川津鉱泉郷』。果たして私は、再びここを訪れることがあるのでしょうか?
_いずれにせよ、昨晩はこれからの旅、いや、これからの人生に対する、「自戒の日」となったことには変わりありません。
イテテテ…背中が…膝が…
_と、いうわけで、私、鷹橋進一が申し上げたいことは、「どこに行っても最低限のマナーを守りましょう」
という、しごく単純なことです。「浴槽に手ぬぐいは入れない」、「浴槽の中で顔や体を洗わない」ことなどは、知っておいて損のないことでしょう。
_「井の中の蛙、大海を知らず」とは申しますが、私もオフィスという古井戸に長年閉じ込められていたせいか、つい久しぶりの旅でつい初歩的なことを忘れてしまいました。
_職場には職場のマナーがあるように、旅先においても、またどこへ行こうと「守るべきマナー」というものがあるのですよね。ここで旅先におけるマナーなど、あれこれと列挙したいのですが、この私が申し上げるのもお恥ずかしい限りですので、省かせていただきますね。
_イテテ…イテテ…。まだ体のあちこちがヒリヒリいたします。こりゃ早いところ治さないといけません…。
_おっと、そろそろエンジンも暖まったようです。ではいつか、またお会いする日まで…。
ブロロロロロロロ……
イテテテテテテテテ……
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