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とある地方の、とある町。 ポケモントレーナーを鍛える施設・ジムはないけれど、そのかわりにポケモンを愛して共に暮らす人々がたくさん住んでいます。 シンボルは、町を南北に分ける大きな公園。綺麗に手入れされている芝生や花壇、植木があって、町の人々はベンチに座って噴水を眺めながら、ポケモンと憩いの時間をすごします。 そんな、この町の公園の大きな木の下の、ある日の出会いを覗いてみましょう。
――彼らの馴れ初め
よく晴れた日でした。 その日の公園には、大きな木の幹にもたれ、木陰に座って、本を読む女性がいました。 その傍らにはイーブイがいて、その女性の手元を覗き込んでいました。変わったことに、メガネなんてかけています。 ふとそこへ。 「シホさん!」 女の子が走ってきます。足元には、これまたイーブイを連れて。 「ユイちゃん」 シホと呼ばれた女性は、本にしおりを挟んで閉じると、もう目の前にまで来ていた女の子…ユイを見上げました。シホのイーブイは、本が閉じられて残念そうな顔をしています。 「急に呼び出したのに、来てくれて嬉しいです」ユイはにっこりして、足元のイーブイを見ました。「このコに同じ、イーブイのお友達を作ってあげたくて」 「あら、そのコは…」 「こないだ、私の誕生日にうちに来たんですよ。珍しい女のコです」 ユイに擦り寄って嬉しそうな顔をしているイーブイ。どうやら、まだ子供のようでした。 「イヴェンタスって名づけたんです。通称はイヴなの。アキくん仲良くしてね」 ユイはそう言い、シホの傍らのイーブイ・アキュラスに笑いかけました。ユイのイーブイ・イヴェンタスは、アキにとても興味を持ったようで、近寄って、顔を近づけています。 ふたりともちょっと長い名前なので、略称で呼ぶことにしますね。 「そうなの」シホはおだやかに微笑みました。「アキュラス、素敵なガールフレンドができそうね?」 「ガールフレンドかぁ!」ユイはその言葉がより嬉しそうです。「そうなるかも。そうなるといいなぁ」 一方、マスターたちの会話に、アキはどぎまぎしているようでした。 「あなたがアキュラスでしょ」イヴは大きな目にアキをまっすぐ映して言いました。「あたしはイヴェンタスっていうの。よろしくね」 「…ん、よろしく」 対してアキは顔をそらしてしまいます。 「あら、アキュラスったら照れちゃって」 「別に、照れてなんかない」 シホはアキの頭を撫で付けてくすくす笑いました。アキはどこか憮然としています。 そうして、アキとイヴは出会ったのでした。
それから、アキとイヴはマスターのシホやユイに連れられてよく公園に遊びにいきました。 アキはもっぱらシホの読書を横から覗いてばかりで、かまってほしいイヴがちょっかいをかけてもあまり相手をしなかったのですが。 ある日、そんなふうに公園で過ごしていたところ、急に雨が降り出しました。 「あら、予報外れ…なんだか強い降りになりそうね。今日は帰りましょうか」 「そうですね…」 シホとユイが小走りで、帰り道の方へ。それにアキとイヴは従ったのですが。 「あれっ」 アキは振り返ります。 「どうしたの?」 「公園にだれか残ってる」 アキの耳がなにか聴きとったようでした。踵を返し、公園へ戻ります。 「アキュラス?」シホが振り向きました。 「シホ、ぼくはもうちょっと外に居たいから、心配しないで」 「じゃああたしも! アキと一緒に居るから、ユイちゃんは先に帰ってて!」 「イヴ、ちゃんと帰れるの?」ユイは心配そうにイヴを見た。 「…ぼくが送っていくから大丈夫です」不本意そうにしつつも保護者さながらの発言。「あと、ぼくはアキじゃなくてアキュラスだから」 「縮めたらアキじゃんっ」 アキは略称で呼ばれるのが気に食わないのでした。呼び方をたしなめられてイヴはぶーっとむくれました。 「そう? じゃあ、お願いね」 「遅かったら傘持って迎えに行くから!」 シホとユイを見送って、アキはイヴと一緒に公園に戻ります。
公園のあるベンチの上に、1匹のイーブイが座っていました。 「だいじょーぶ?」 イヴがその顔を覗き込みます。 いまや本降りとなった雨に濡れて、そのイーブイは震えていました。 「寒くない?」 アキが尋ねると、イーブイは素直に頷きます。 「やっぱり。歯が鳴る音が聞こえたんだ」 「えーっ、アキって耳がいいのねっ」 「だからアキって呼ぶな」 そんなやり取りを見て、そのイーブイはどこか羨ましそうに目を細めます。 「きみはなんて言うの? どこから来たの?」 「僕は、ウォーリア。町の南の屋敷から来たんだ」 「お屋敷から? すごいね…ぼくはアキュラス」 「へえー、じゃあウォーって呼ぶね! あたしはイヴェンタス!」 アキは驚いていました。町の南のお屋敷といえば、町一番の富豪の住まいです。 イヴはといえば、聞いた名前を勝手に略して、嬉しそうな顔をしました。 「ウォー、あまやどりしようよ」 イヴが彼の手を引っ張ると、ウォーは少し抵抗を見せます。 「そんなところで雨に打たれていたら風邪引くよ」アキも声をかけました。 どうしようかと、思索顔をしたウォーは…小さくくしゃみをしました。 「ホラ! 風邪引いちゃうからっ」 イヴが力いっぱいウォーの手を引っ張ると、 「うわっ」 油断したウォーがバランスを崩してベンチから前のめりに落ちそうに。 「あぶないっ」 それをアキが受け止めて。 イーブイが3匹、団子になって、濡れた芝生と土の上に転がりました。 ウォーはアキとイヴの上に落ちて無事でしたが。 「…あは、ごめんね〜」イヴが苦笑いします。 「ったく。ウォーリアが怪我しなくてよかったけど、おかげで泥んこだよ」 「…。くすっ、あはははっ」 ウォーが、背中が泥まみれのふたりを見て、笑いました。 それを見て、つられて。アキもイヴも笑いました。
雨宿りにと、先ほどの木の下で3匹は身を寄せ合っていました。 アキとイヴが、いちばんびしょぬれのウォーをはさんで。 「お屋敷で、ご主人様の大切なものを壊しちゃったんだ、僕」 ウォーが突然切り出して、アキもイヴもウォーを見つめました。 「ご主人様、すごく落ち込んで、気にしなくていいよって言われたけれど、僕は申し訳なくて、お屋敷を飛び出してここまで走ってきたら、雨が降ってきちゃったんだ」 「そうだったの」イヴが相槌を打ちました。 「雨は嫌いなんだけど、僕は自分にお仕置きをしたくて、雨宿りせずに居たんだ」 「…おせっかいだったかな?」 アキが少し申し訳なさそうにして言いました。 「いや、嬉しかったよ」ウォーはアキに笑いかけました。「やっぱり寒かったし、退屈だったから…君たちに出会えてよかった」 にっこり、ウォーは笑いました。 「ホント、よかったね! あたしたちとっても仲良くなれそうな気がするもんっ」 イヴがウォーに笑いかけました。 「どうしてそう思うの?」 ウォーが不思議そうに尋ねます。アキもウォーと同じ気持ちのようで、イヴの顔を見ました。 「あのね、アキはアで、あたしはイで、ウォーはウでしょ。アイウエオのア・イ・ウだから、いつも仲良く一緒にいられそう! と思って」 イヴは得意そうに答えます。 「そうだね。僕たちが同じイーブイだってことも、なんだかそう思わせるなあ」 ウォーは、ふたりを見て、嬉しそうに言いました。 「僕、初めて家の外に友達ができるよ。すごく嬉しい。これからも、会えるよね」 「もっちろん! そーだ、ウォーのご主人様が怒ってたら一緒にあやまったげるね!」 「単純な理由だなあ…」 ふたりが盛り上がっているのを見て、アキが面白くなさそうに口を挟みました。 聞き捨てならないと、イヴはむっとした顔をします。 「単純だなんてシツレイなっ。あたしの名前はそういう風についてるのよ?」 「そういう風って?」 「『アキくんと仲良くなれるように、頭文字はアの隣のイにして、イヴェンタスね』ってユイちゃんは言ってたの!」 「…!」 ふわっと笑う、イヴを見て、アキは顔をさっと赤らめてそっぽを向きました。 「アキィー、単純じゃないってちゃんとわかってくれたー?」 「わかったよ…あとアキって呼ぶな」 「ホントー?」 ふたりを見て、ウォーは訳知り顔になってくすっと笑いました。 「僕たち、友達以上に親しくなれそうだね」 「…!」 アキが少し警戒するように顔をこわばらせますが、ウォーが小声で添えた言葉に何も言えなくなりました。 「安心して、イヴェンタスはとらないから」 「…!!」 「なになにー? 友達以上ってっ」 「なんでもないよっ」 はぐらかすアキに、イヴは頬を膨らします。ウォーはにこにこ笑って見守っています。 「君たちに会わせてくれた、この雨に感謝しなくちゃなあ」 「そうだねぇ」 「そうだね」 寄り添う三匹は誰からともなく、互いに心を許しあうように穏やかな寝息を立て始めます。 しとしと雨音を子守唄に、茂る大樹の枝に見守られながら。
だいぶ、日も傾いた頃でした。 雨はすっかり上がって、去っていく雨雲の合間に赤い空が覗いています。 「ウォーリア! ウォーリア!」 名前を呼ぶ声が、三匹のもとへ近づいてくるので、耳のいいアキがまず目を覚ましました。 声の主を見ると、上等な服を身にまとった少年。必死にウォーを探しています。 「ウォー、起きて。君のご主人かも」 「…え、」 寝ぼけ眼のウォーは、しかし、その少年を見つけてはっと目を見開きます。 「アサヒ!」 その声で、少年はこちらに気づき、走ってやってきました。 ウォーの体を抱き上げ、自分の服が濡れるのも構わず抱きしめます。 「ウォーリア! びしょぬれじゃないか。さっきのことはもういいから、帰ろう」 「…っ」 ウォーはまだ気にしているのか、少年・アサヒと目が合わせられずに顔を曇らせます。 アサヒはウォーを安心させるようにとびきり明るく笑って見せました。 「大丈夫だよ、怒ってないよ。ティーカップひとつ壊れたぐらい、君がいなくなるのに比べたらなんでもないさ」 「…ごめんなさい」申し訳なさそうにしながら、ウォーは困ったように笑いました。「ありがとう、探しに来てくれて」 「いいんだよ」 アサヒは優しくウォーを撫でた後、アキとイヴに笑いかけました。 「わぁー、イケメンさんっ」 やっと起きたイヴがこっそり呟きました。 「君たちはウォーの友達かい? 遊んでくれてありがとう。今度うちにおいでね」 アキが固まってそれに対して返事を出しあぐねている間に、アサヒはさっと踵を返しました。気づけば公園沿いの道路に高級車が。 アサヒとウォーがそれに乗り込み、 「アキュラス、イヴェンタス、ありがとう。また会おうね」 ウォーがこちらに手を振りました。 あっという間に高級車は走り去っていって、アキとイヴはぽかんと立ちつくし。 そこに、入れ代りにユイとシホが。 「アキくん! イヴ! 泥んこになるまで遊んでたの?」 「遅かったから、迎えに来たの。そろそろ帰りましょう」 泥んこのアキとイヴは顔を見合わせて。 アキは「心配掛けてごめん」申し訳なさそうにシホの足もとへ。 イヴは「迎えに来てくれてありがと!」にこにことユイの足もとへ。 そうしてふたりと2匹は、夕日で染まった帰り道を歩きだしました。
「ところでシホさん、さっきの高級車見ましたか? アサヒくんが乗ってたけど…」 「そうね…何だったのかしら」 ふたりの会話に、イヴが割り込みます。 「そのアサヒくんのイーブイと、お友達になったの!」 それを聞いてユイとシホは目をまん丸に見開きました。 「アサヒさんってどんな人なんだ…?」 アキが恐る恐る尋ねると、ユイが興奮したように答えてくれました。 「アサヒくんは、南のお屋敷に住んでるこの町一番の富豪の家のひとり息子だよ!」 「すごい人のポケモンと知り合ったのね…」 それを聞いてアキは固まっちゃいました。イヴはへえー、なんて、あっさりした反応。 「そんなことより、そのイーブイはウォーリアっていうの。あたしたちの名前と合わせて「アイウ」になるんだよ! すっごいよね!」 「あら、素敵ね」シホは大人っぽく微笑みます。「私の弟も今度イーブイをもらえるっていうから、この話をしてみようかな。あなたたちと仲良くなれるような名前を付けてもらえるように」 「いいですねそれ! そのイーブイにも会ってみたいなぁ」 ユイは顔を輝かせました。楽しみが増えたことを喜ぶように。 それに同調してか、イヴもあふれんばかりに微笑んで。 「アキィ、もーっといっぱい友達が増えるといいね!」 対してアキは、ちょっとおもしろくなさそうな顔をするのでした。 「…アキって呼ぶな」 「ぶー、アキのけちぃ」 シホとユイは、そんなアキに、「きっとやきもちね」なんて、顔を見合せて笑うのでした。
どうでしたか? ニックネームでつながる彼らの、馴れ初め話。 さて今度は、そんな彼らの今を覗いてみましょうか。
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さてさて彼らの現在は、それぞれが進化して、 まじめな近眼サンダース、アキュラスと。 おっちょこちょいな明るいシャワーズ、イヴェンタスと。 紳士的なお金持ちブースターのウォーリア。 町でうわさされるほど、彼等は仲の良いトリオになっていました。 今日は、それぞれの視点から、そんな彼らの日常を覗いてみましょうか。
――彼らのバランス
ジリリィッ! 「ん…、んー」 目覚ましがけたたましく鳴り響く。 睡眠妨害じゃない。早く止まれ… ジリリ…ッ。 よしっ、止まった。 あたしの心地よい眠りの邪魔をする存在が去ったのね。 では遠慮なく、また眠りましょ… 「イヴッ! 起きなさーい!」 掛け布団を引き剥がされて、あたしは唐突に目覚めた。 見上げると、そこにはあたしのマスターのユイちゃんが。 まぁ、マスターって言うよりは、お友達みたいなものだけどねー。 「むにゃ…なぁに?」 「なぁに? じゃないっ。今日はアキくんやウォーくんと約束してるんでしょ?」 「うん。それが?」 「これをよく見なさい」 突き出されたのはさっきまであたしの安眠妨害をしてた目覚まし時計。 時刻は… 「2時?」 「ちがうよイヴッ。よく見て。10時でしょ!」 あ、そっか短い針が反対かー…って。 「ウッソォ!」 「ウソォじゃないでしょ。さっきからさんざん目覚まし時計鳴ってたよ?」 「タイヘン! 待ち合わせは9時なのに。支度しなきゃ」 「まったくもうっ」 慌ただしく始まったあたしの朝。 自分でも嫌になっちゃう寝坊癖。 やばーいまずーい。アキに怒られちゃうよー! 「いってきまーす!」 「もう行くの? 気をつけてねー…あれ、朝ご飯は?」 幸いお出かけ用のポーチを前日に用意していたのが功を奏して、たった40秒で支度を終えて。 わき目もふらず、ダッシュで家を飛び出して、待ち合わせ場所に向かった。 こんな日に寝坊なんて。あたしのバカバカー! ともかく今は、一刻も早く広場に行かなくちゃ。 今頃、アキはあたしのこと心配してるかな。 なーんて、ゲンキンなこと考えたりしながら、あたしはできる限りのスピードで走る。 大好きなふたりの待つ場所に。
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遅い。遅い。ひたすら遅い。 なにをしているんだあのドジ娘は。 広場の時計塔のベンチで9時と言ったはずなのに! どうせ寝坊だとは思うけど、まさか、何かあったとか? タメイキが止まらない。 「アキュラス、そんなに心配かい?」 「なっ」 隣で同じベンチに座っていた、ウォーリアが微笑ましそうにこちらを見る。 その訳知り顔がなんだか面白くない。 「そんなことないよ、誰がイヴの心配なんか」 「私はイヴェンタスのコトなんて何も言ってないよ」 「…っ」 誘導訊問に引っかかった、僕としたことが。 「さっきからビンボーゆすりが止まらないじゃないか。何か心配する時の君のクセだよ。気づいてないのかい?」 「わかってるよ、そんなの…」 「彼女が待ち合わせに遅れるなんていつものことじゃないか。今回は特に遅いけれど」 「そうだけど、時間にルーズっていうのは女の子として重大な欠点だと思うぞ」 「女性はいろいろ大変なんだよ? アキュラス」 なんだそれ。言い返そうとしたけれど。 聞きなれた足音を、僕の耳は拾った。 「やっと、来たか…」 散々僕等を待たせた奴がやって来る。 「さすがの地獄耳だね。私にはまだはっきり見えないよ」 「僕にはもっと見えないけど、あいつの走る足音は特徴的だからすぐわかるんだよ」 「ほお、愛だねぇ」 「なっ」 くだらん話をしている間にようやく姿が見えるようになってきた。 まぁちゃんと来たのはいいとして、もっと早く走れないのか、イヴ。 「遅れてごめーん! …うわわっ」 息を切らして走る、イヴの足がもつれる。 「バッカ…!」 ドジ娘。何もないところで転ぶなよ! 悪態をつきつつ、僕は焦りに焦って、思わず前に飛び出していた。 イヴを受け止めて、本日何度目になるか知りたくもないタメイキ。 「ごっごめん! 遅れた上に…」 「いいよ。どうせ朝食も摂ってないだろ」 「あっ」 思ったとおりの反応をするなぁ、本当に… 「おふたりさん」ウォーリアが呼びかけてくる。「いつまでそのままでいるつもりなんだい?」 はっ… 我に返って、僕はイヴの顔を見上げ、イヴは僕の顔を見下ろし。 とっさに、パッと離れる。 「じゃあ、行こうか」 くすくす笑いながら、さっさとひとりで歩いていくウォーリアを、僕とイヴは追いかける。 くそ、僕なんだかさっきからずっとウォーのいいおもちゃにされてるな… 歯がゆく思っていたところ、空腹ながら僕の歩みに懸命に合わせてくる、イヴはそっと僕に耳打ちしてきた。 「さっき、受け止めてくれてありがと」 そしてなんとも幸せそうに笑う。 不覚にも見とれて…。だけどそれを悟られないように意地悪を言い返してやった。 「まったく、ドジな奴のお守は大変だよ」 「む、むうっ…」 思った通りに頬を膨らした。これで気づかれなかったかな。 まったく。朝から調子狂わされっぱなしだよ…
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ふふふ。朝からおもしろいものが見られたよ。 とりあえず、朝食抜きでやってきたイヴェンタスには、商店街の人気のクッキー屋さんでチョコクッキーを買ってあげたけれど。足りるかな? まぁ、アキュラスが「イヴ、これ好きだろ」なんて言って選んだものだし。 彼女も「それだけでお腹いっぱいv」みたいな顔していたからね。 お店の番をしてたライチュウさんに茶化されて、ふたりとも照れちゃってさ。 「まったく、ラブラブカップルと一緒だとちょっといづらいなぁ」 そう言ったら、アキュラスに思いっきり否定されたけどね。 そして、お昼は私のおごりで、ポケモンたちのカフェレストランに。 高級レストランだったりすると、ふたりともいづらいだろうし、ね。 アキュラスはちょっとばつが悪そうにして、メニューの中でも安いものを。 イヴェンタスはやっぱりおなかが空いていたんだろう、大きなオムライスをぺろりと食べて、それから特大パフェ(あまりのボリュームに食べきれなかった人続出)を頼んでいた。 そして私はケーキとコーヒーを頼んだ。小食なのでね。 「飲み物おかわりしてくるねッ」 イヴェンタスがグラスを片手に、席を立った。 やがて、セルフサービスのお茶をおかわりして彼女が戻ってくる。 「イヴ、他の客にぶつかるなよ…」 しかし、アキュラスの言った傍から。 戻ってくる途中、イヴェンタスは他のお客さんにぶつかって、お茶を少しこぼしてしまった。 「あっ、ごめんなさい!」 「なにすんだよ姉ちゃん…汚れちまっただろ!?」 相手はガラの悪そうなオコリザル。彼女にからんでくる。 あー、これはまずいなあ… 「ホントにごめんなさいっ」 「あやまって済むかよ…よーく見たら結構かわいいじゃん。お詫びにオレと付き合いな」 「なっ…やーよ!」 「いいからっ」 なんというか古典的な展開だ。 ムッとした顔でアキュラスが立ち上がろうとする。 でもそれより早く、私は軽めの「ねっぷう」をオコリザルに浴びせてやった。 「うあっちちちぃぃー!!?」 軽めと言えど威力は十分だったようだ。うまいぐあいに命中した、今のうち。 カウンターにお金をいくらか置いて、アキュラスとイヴェンタスと一緒に逃走。 「あっ、お客さん!」 「お釣りは要りませんよっ」 「は、はぁ…」 レジ係のペルシアンさんはちょっと困った顔をして私たちを見送る。 一瞬遅れてオコリザルが店を飛び出した。 「ま…待てゴラァー!」 誰が待つもんか。しかし、走り去り際に。 「ちょっとお客さん!」ペルシアンさんが素早くオコリザルの正面に回った。「お会計を済ませてからにしてくださいよ」 「なんだとぉ!? オレの邪魔するんじゃねぇぞっ」 振り切ろうと走るオコリザル、しかしペルシアンさんの方が早くて。 オコリザルの腕を顎でがっしり捕まえた。そして店の奥へと引っ張っていく。 「あなたの振る舞いは頂けませんね、ちょっとこっちへ」 「んなっ…、痛っ、くそっ! 離せ! 痛ぇって!」 未だにこちらを(イヴェンタスを)睨みつけながら、しかしちょっと涙目でペルシアンさんに引きずられていくオコリザルを、私たちは店先から見送る。 結局逃げる必要がなくなってしまった。私たちは盛大にタメイキをつく。 「はぁ、お茶飲み損ねちゃった。あたしが可愛いからって、まったくもぅ」 イヴが店の奥に消えた哀れな彼に盛大にあかんべをする。 「自分で言うか、そういうの。それに元はお前が不注意だからこんな面倒なことになったんだろ」 「ぎ、ぎくっ…」 アキが呆れたようにタメイキ。 「まぁそれも一理あるけれど。お茶こぼしたくらいであんなに絡んでくるとは…ね」 私もまぁ、あの彼も災難だったなぁと思うのだった。 「そっそうよね! ありがとう、ウォー!」 「どういたしまして」 イヴェンタスが笑顔で振り返る。 ま、紳士たるもの女性を守らなくちゃ、だものね。 でも、正直この役目はアキュラスに譲った方が良かったかもしれないな。むっとした顔しちゃって。 ホラ、お小言が飛んでくる。 「まったく、ウォーはイヴに甘すぎだ」 「そうか、ごめん。彼女を守るのは君の役目だったね」 「なっ」 アキュラスはまた返す言葉をなくしたようだ。面白いなあ。 イヴは「アキやきもちー?」なんて追い打ちをかけるから。彼が耳まで赤くなったのは誰の目にも明らかだったろうね。
「よし気を取り直して、おなかいっぱいになったから運動しなきゃね!」 「じゃあ公園まで競走だな」 「そりゃあアキュラスのひとり勝ちになるじゃないか」 「負けっぱなしは嫌だからな」 そうして、笑いあいながら、そろって町の公園へ走りだす。
これは、彼等の日常、ある日のひとコマ。 ドタバタしつつも、なんだかんだで、3匹でいるのが一番楽しい。 そんな、彼らのバランス。 初めて出会ったあの日から、何年間もこんな調子なんです。
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――願掛け
「シホ、ただいま!」 興奮気味に声を弾ませた、彼は玄関の扉を閉めるのも忘れてシホの名前を呼びました。 少年と青年との合間といった背丈、体つき、顔立ちの彼。メガネの奥の両目をきらきらと輝かせ、両手にモンスターボールをふたつ、大事そうに抱えています。 同じく少女と言うには大人びた風貌のシホが、彼を出迎えました。 「おかえりソラト。それが、あなたのイーブイ?」 満面の笑みを浮かべて、彼・ソラトはうなずきました。 この町には、他地方にもその名をとどろかせるイーブイ好きの冒険家の邸宅がありました。その冒険家はイーブイを求める人には誰でも、屋敷にたくさんいるイーブイを渡しているのです。この町のイーブイのほとんどはその屋敷につながっていると言っても過言ではないでしょう。 そのうちの2匹を、ソラトは譲ってもらってきたところでした。 玄関から居間へ移り、ソファに腰をおろしながら、ふたりの話は続きます。 「2匹も頂いてきたの? 欲張りね」 「仕方ないだろ、良さそうな奴が2匹いてどっちかに決めるなんて難しいよ。しかもその2匹は期待を込めたまなざしで僕を見上げてくるんだ。どっちかを見捨てるなんて」 ああ、想像もできない、なんて悲劇じみた声で、少しばかり大げさに語って見せるソラトに、シホはくすくす笑います。 「幸い、大らかな人でさ、両方君に譲るって言ってくれたんだ」 「それはよかったわね。どんな子? アキュラスも、気になるよね」 シホの傍らに控えていたアキは、うなずくといった動作はしなかったものの、控えめに数歩踏み出しました。 ソラトはシホとアキの視線を受けてますます気持ちが高まったようでした。 「よし、お披露目しようじゃないか。出て来い!」 ふたつのモンスターボールの開閉スイッチが押され、出てきたイーブイは。 一方は活発で人懐っこそうな、鋭い目つきのイーブイ。 他方は人見知りなのか、もじもじと照れたように耳と目を伏せたイーブイ。 「あら、両極端な性格って感じね」 「かわいいだろ! こっちはオスで、オーファ」ソラトは前者のイーブイの頭に手を置き、「こっちはエルミナ。メスなんだ」後者のイーブイの背中を撫でます。 「どっちもかわいいわね。ねっアキュラス」 「ん…」 2匹より早く生まれて少し体の大きいアキは、しかしちょっと緊張しているようでした。 「は、はじめまして。アキュラスさん」エルミナがおずおずと挨拶をします。 「よろしくな、アキ先輩!」対してオーファはごく気さくに。 「…よろしく」 アキはそう一言だけ返します。積極的にコミュニケーションをとりたがるオーファより、消極的なエルミナを気にかけているようでした。 「ニックネームは、前にシホが言ってた話を参考にして決めたんだ」 「それはいいわね。イヴェンタスちゃんやウォーリアくんとも仲良くなれるかも」 「そうなるといいな。ニックネームでつながるって、なんだか素敵だよ。僕も、アキュラスのいい出会いにあやかりたいな」 エルミナとオーファを抱き上げて、頬を擦り寄せるソラト。2匹とも、くすぐったそうに身じろぎをします。 シホも、アキを膝の上に乗せて、ソラトを見、微笑みました。 ソラトもシホに笑み返して、胸を張ります。 「シホ、僕は近いうちにこいつらと旅に出てバトルの修行をしようと思ってる」 「まあ、それは大変ね。…」シホは目を丸くし、それから思考をめぐらすように長いまつげが縁取る目を伏せて。「寂しくなるけど、がんばってらっしゃい」 「ああ。もちろん」 なあ、と、ソラトが腕の中の2匹と目くばせ。 エルミナはおどおどしつつ、オーファはわくわくと、それに笑顔で答えたのでした。
さてさて、彼らの現在も気になりますね。 また少し、覗きに行ってみましょうか。
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ズシャアッ! 激しい痛みとともに、わたしの体がフィールドにたたきつけられる。 起き上がる力は、もう残っていなかった。 「エルミナ!」 マスターの声が聞こえた。 「エーフィ、先頭不能。よってこの試合、勝者は――」 相手トレーナーの名が呼ばれ、そこでわたしの意識は途切れた…
――あべこべの月と太陽
意識が戻ったのは、ポケモンセンターで体力が回復した後だった。 ジョーイさんからボールを受け取った、わたしのマスターのソラトくんは、さっきのダブルバトルに負けたことでどことなく落ち込んでいるようだった。 ボールの中から呼び出される、わたしと、さっき一緒に戦った仲間。 「ごめんな、エルミナ、オーファ」 「謝ることないって!」 快活に笑う、ブラッキーのオーファ。バトルの結果は全く気にしていないようだった。 「しかたねーよ。相手にはパラセクトがいて、オレもエルミナも相性が悪かったんだし、『キノコのほうし』なんて防ぎようがねーし」 確かに、もう一体のほうはすぐにノックアウトできたけれど、パラセクトが強くて。 「のろい」で防御を高めていたオーファでも、「シザークロス」を耐えられなかった。 「いや、僕の指示が追いつかなかったから…エルミナの『シグナルビーム』をもっとうまいタイミングで…」 ぶつぶつと、ひとり反省会を繰り広げるソラトくんを見て、申し訳なくなる。 そんなわたしとソラトくんをよそにオーファは。 「だからあ、終わったバトルのことは気にすんな!」明るく笑って。「そういやハラへったなあ。メシにしよーぜっ」 「まぁ、それもそうかな…」 ソラトくんはオーファを見て元気が出たらしく、くすっと笑った。 バトルで負けたあとの、いつものやり取りだった。 ここまでは。 「でも、やっぱり気になるなぁ」 「晩メシの献立か?」 「いや、さっきのトレーナーが、エルミナが自分に自信を持ててないんじゃないかって」 どきり、とした。 ソラトくんが言った、そのことは、確かに事実だったから。 「エルミナが?」 オーファが、首をかしげてこっちを見やる。 「迷っているみたいだって、言われたんだ。自分のポケモンがそんなことになってるのに気付かないなんて、トレーナーとしてまだまだだなって…」 ちがうよ。ソラトくんは悪くない。 そう言いたいのに、体が震えだして、口は開かない。 「…ま、メシ食って寝たら元気出るんじゃね?」 あくまでもご飯にこだわるオーファは、呑気に、いい香りの漂う食堂へ歩いていく。 それについて行きながら、ソラトくんは心配そうにわたしを見た。 「なにか、悩み事とかがあるのか? 辛いなら相談してくれよ。お前のことは丁寧に育てたつもりだし、絶対強いんだから。自信持てよ」 優しく、ソラトくんは笑うけど。 わたしはわたしの力に自信が持てないんじゃ…なくて。
PCに泊まることになったその夜は、なんだか寝付けなくて、窓の外の夜空に浮かぶ月を見ていた。 おかしいと思うけど、わたしはエーフィなのに、夜が、月が、好きで。 昼の日差しを浴びるより、月の光の中にいるほうが落ち着くの。 なんだかその日は、普段より月が優しく感じたから、わたしは窓を半分開けて、そこから外に出た。 夜の空気と、月の光の中で、考え事。 ソラトくんが、バトルの相手に言われたことの意味を。 わたしは物理攻撃より特殊攻撃のほうが得意だったし、素早く動けたから、エーフィに進化するようにソラトくんは育ててくれたけど。 本当は、ブラッキーに進化したかったなと、ときどき思う。 エーフィはたいようポケモン。太陽は生き物を明るく照らすものだもの。 こんなに臆病なわたしは、だれかを明るくできるような存在じゃないって…思うから。 わたしはわたし自身に、自信が持てないでいる。 力をつけるための訓練が終わって、進化もして、実戦に出るようになったばかりだとはいえ。能力がうまく伸びるような育て方をしてもらって、戦う力は強いハズなんだ、けれど。 むしろ、エーフィ向きなのは、オーファの方… カサッ 物音に、振り返る。そこにはオーファが、ぎくりとした顔をして立っていた。 「ごめんな。邪魔した?」 苦笑いしながら、訊いてきたから。 「…ううん」 首を振ると、オーファは「そっか」って、ケロっとして、近づいてきた。 わたしの顔を覗き込んで、言う。 「なあ、気にすんなよ。昼間のこと」 やっぱり、その話題。 わたしは目を合わさずに、返す。 「…気にしてないもん」 「いや、気にしてるじゃねーか」 「してないっ」 「してるだろ」 強い口調に、ちょっとむっとしちゃって、オーファの目を見返す。 「気にしてるだろ。何か悩むたび、エルミナは月を見てる。今夜もだな」 言い返す言葉が出てこない。 オーファの強い色の瞳の中で、途方に暮れるわたしの色は呑みこまれていて。 まるでわたしたちの力関係みたい、なんて。 「おおかた、エーフィなのにわたしは陰気でエーフィ向きじゃない――とか、そんなことだろ」 言い当てられて驚く。 「! なんで…」 「そんなことすぐわかるぜ。なーんでか、オレとお前はシンクロしてるから」 どういうこと? 心の中の問いだったけれど、オーファはそれに答えるように言った。 「オレも、オレはブラッキー向きじゃないと思ってたし。ガンガン攻撃するのが好きだから、どうせならエーフィとかサンダースとか、そのあたりに進化したかったぜ」 「そう…なの?」 こくん、と、オーファはうなずいた。 「夜や月っていうのは静かってイメージで、どうも昼間の明るさが好きなオレとは合わないと思ってたんだけど、やっぱり特殊攻撃が苦手じゃエーフィには向かないんだろなあ」 オーファの体の黄色い模様が月光を受けてふんわり光っているのを眺めながら、思った。 きれいだなあ。羨ましい。 でも、ガサツっぽいオーファには、確かに似合わない感じは、するかも。 オーファも、私と同じだったのかな? 「でもオーファは、自信満々でバトルも強いよ」 「そうか?」 そんなこと意識もしてないんだろう、オーファはきょとんとこちらを見た。 ちょっとだけ妬ましさが募って、同時に自分がちょっと恨めしくなった。 なのにあなたは、また驚くようなことを言うんだ。 「だとしたら、それはお前のおかげだろ」 「え?」 「オレも同じように悩むことがあったけどさ、お前のこと見てると、体と心がちぐはぐなのもアリだなあと」 「…なにそれ」 「いや、うまく言えないけど」 苦笑いして、わたしを見る。 「欲しいと思ってたものは、手に入れちまうより、近くにあるってだけのほうが、大事さを忘れずに済むんじゃないかと思うんだよな」 「どういう…こと?」 訳がわからず、訊くと、オーファは照れ臭そうにしながら続けた。 「太陽の下にいるエルミナはすごくキレイでさ。きらきらしてるんだ。体が喜んでるカンジで」 キレイ、なんて。 言われたことにびっくりして、すごく恥ずかしくなった。 月が明るいから、オーファにもわかってしまうかも。 それが、少し悔しかったから。 「…オーファも、月光の下にいるととってもきれいだから…羨ましいな」 言い返すと、オーファも顔が赤くなった。それを見てちょっと恥ずかしさが和らぐ。 「さんきゅ」照れ隠しに、前足で頭をかくようなしぐさ。「つまり、お互いなりたい姿になってたら、憧れとか忘れちゃうだろうなと思ったんだよ」 「…そっか」 そうかもしれない、と思った。 だって、自分で自分のことなんかキレイだと思わないもの。 でも自分以外の誰かなら、見て、キレイだな、素敵だなって、素直に思える。 わたしたちの場合なら、お互い。太陽は月に、月は太陽に憧れて。 「それに、エルミナはちゃんとオレの太陽だよ。お前がいなくちゃオレは困るんだから」 「な」 なんだかすごくくさいセリフをあっさりと。 それに自分でも気づいたんだろう、オーファは「今夜はなんだか暑いぜ!」だとか言いながら、窓から部屋に戻って行った。きっと照れて体温が上がっただけだろうけど。 でも、なんだか嬉しくなった。同時にどきどきしてくる。 あぁ、なんだか今なら、パラセクトだって倒せそう。 窓から、ソラトくんの寝てる部屋に戻ると、すでにオーファは寝入っていた。 おもわずくすりと笑みが漏れた。 寝ちゃったところを起こすのもかわいそうだから、かわりに。 「ありがとう」 優しい光を落す月に、そう言葉をかけた。
後日、あのパラセクト使いさんと再戦したところ、見事わたしたちが勝利を収めた。 オーファのせいで体が軽くなった感じがして、うまく立ち回れたことが勝因かな。 ソラトくんも安心してたみたいで、よかった。
やさしくて、ちょっぴりかっこつけしぃな、オーファこそわたしのお月様だよ。
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――雨の日
その日はそりゃもう土砂降りの日だった。 バケツをひっくり返したようだと言うのはまさにこのことだろう。家の窓に雨粒が絶え間なく叩きつけられ、外の景色も定かでないほど。 「気が散るなあ…」 僕はどうも騒がしいと集中できない性分で(耳がいいのは時として不便だ)、読書もできずに、半目になって窓ガラスを眺めるばかり。流れる雨水でぐにゃぐにゃに溶けた外の眺めは滑稽だった。 「やっぱりアキュラスには、BGMとしては少しうるさいのね」 シホは僕のぼやきに笑みを漏らして、首のまわりを撫でてくる。サンダースの毛並みは硬くて尖っているのに、それがいいと言って僕を可愛がるシホはもの好きだ。 その日は平日だったが、シホは仕事が休みだったので、イヤホンを付けてクラシック音楽など聞きつつ読書にふけっている。シホは静かな音楽があると集中できる性質だった。その様子を見ながら、僕もシホの用に器用だったらなあ、なんて心の中でひとりごちた。 と。 「アキ!」 雨音にまぎれて、かすかに僕を呼ぶ声が聞こえた気がする。だけど空耳に違いない。 こんな雨の中、他に誰もいない家の中、僕をそんな風に呼ぶやつなんて… 「アキィ! 聞こえないの〜?」 ぬっ、と、窓ガラスに流れる雨水の中に顔が浮かんだ。 僕はびっくりしたけど、すぐに見知った顔だと気づく。 「イヴ…こんな土砂降りの中で何やってるんだ」 ため息交じりにそう言葉をかければ、雨水はシャワーズの形をとって笑う。 僕は呆れつつ、微笑んで裏口を開こうと立ち上がるシホの後に従った。
「イヴちゃん、アキュラスを頼むわね」 「まっかせてください♪」 僕の何をこいつに頼むというのか。シホとイヴのやりとりにますます眉間に皺が寄るのを感じる。 雨の中漏電防止にレインコートを隙間なく着せられて、窮屈なことこの上ない。 「アキィ、今日もひときわ仏頂面だねッ」 「仏頂面はもともとだ」 「あは、そーかも」 降りしきる雨に体を半分溶かして、嬉しそうに笑っているお前には僕の気持なんてわからないだろう。僕は、電気タイプだ。こんな日にうかつに外に出たらそばにいる人間やポケモンに電撃を与えてしまうかもしれない。 きっと今頃ウォーリアだって、お屋敷から退屈そうに雨を見ているんだ。彼は炎ポケモン、雨の中で遊ぶなんて身を削るようなものだし。 だから、僕らの中で雨が好きなのはイヴだけ。 「なんでこんな日に連れ出すんだよ」 できる限りの不機嫌な顔で、そう言うけれど。 イヴは答えずに、朗らかに笑って、走っていく。その方向は公園のいつもの場所だろうか。 思わず後を追ってしまう僕に、僕は本日何度目かのため息を贈るのだった。
「こんな日だから、だよ!」 公園の大きな木の近くまで来て、やっとイヴは振り返った。 僕はそれが先ほどの問いの答えだとわかるまで少し時間を要してしまった。 相変わらず雨が強く、レインコートはだんだん意味をなさなくなってきている。 「だから、なんで…」 僕は意味がわからなくて訊き返す。イヴは雨宿りのできる木の下でなく、雨ざらしのベンチを指して、座るよう促す。 言われるまま、僕はイヴの隣に座る。雨の中走ったせいで、メガネにも水滴が飛んでいた。イヴはというとベンチに座らず、その下の水たまりに体を溶かして遊んでいた。そこは泥水だろうに。 「アキがつまらなそーにしてるかなって思ったの」 水に溶けてどこにいったかわからない、イヴの口が言葉を発する。 何を言うかと思えば。 「雨はつまらないけれど、イヴが心配することじゃないだろ。雨の中なんかに連れ出されてこっちはいい迷惑だ」 心とは裏腹の言葉を投げる。 あのまま家に居たって、確かに退屈でしかなかった。でも雨の日ならそんなのいつものことだ。進化して以来、雨の日はうかつに外に出られないし、誰かと遊べない。 いや。そもそも進化してから、僕は特に親しくない相手とは遊ぶのを避けるようになった。 僕はサンダースだ。体毛はトゲトゲと硬くて、静電気を帯びている。 触られるのが苦手だから選んだ進化系だったけれど、やっぱり一緒にいたい相手もいて、そういうときには少し苦しいんだ。僕が近寄って痛い目にあわせてしまわないか。 そんな、思考の渦に沈んでいたが、いきなり体を寄せてきた存在に気づいて驚いた。 「アキって嘘が下手だよね」 いつの間にかイヴは僕の隣に座っていて、深い色の目に僕を映しこんでいる。 その目で見られるのが、すこし嫌だと思った。何もかも見透かされそうな水鏡のような目。 「あたしはアキと一緒にいたって平気だよ。トゲトゲもビリビリも含めてアキだもん、ちっとも痛くないよ」 ぽつりぽつり、イヴの言葉が雨音とともに僕の中に落ちる。 「気を遣わなくたっていいし、甘えていいんだよ」 気を使ってるのはむしろイヴの方だし、誰かに甘えたいとは思わない。 だけど。 僕の心の中の雨雲は、スッとそのなりを潜めた。 「…おせっかいめ」 また、素直になれずに、そんな言葉しか渡せなかったけれど。 イヴは僕の言葉を受け取って、晴れやかな笑顔で笑うのだった。 「うん!」 気づけば雨の代わりに、雨雲を貫いて陽光が落ちてきていた。 光るセカイを見わたして、イヴが言葉をこぼす。 「キレイだねえ」 「そうだね」 僕はそう答えたけれど。 そのとき、本当にキレイだと思ったのは…。 「アキィ?」 イヴがこちらを振り返る。 僕はそこで、イヴを見つめていることに気づいてはっとする。 慌てて口を引き結べば、イヴはにやりと口をゆるませた。 急に顔が熱を持つ。 「ニヤニヤするなっ」 「だってえ、アキったらあたしの方に見惚れてるんだもん!」 「そんな訳ないだろ!」 「素直じゃないなあ、もー」 だめだ。今日は勝てそうにない。僕は不本意ながら逃げに走る。 「今日は雨の中のデートなんだろ。雨が止んだから帰るぞ」 「こら! 逃げるなーッ」 走るのが遅いイヴが、僕を追いかけて怒鳴る。 仕方ないなあ、みたいな顔して笑いながら。
まったく、敵わないな。 そうだ、君が僕に触れて痛がるハズなんてなかった。 君は僕の棘まで包み込んで丸くしてしまう、あたたかな雨のようだもの。
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――雨の日
その日は、バケツをひっくり返したような雨の降る日だった。 私は炎ポケモンだからか、雨がダイキライ。外で遊べないし。 こんなだだっ広いだけで面白くない屋敷の中でごろごろしてるしかない。 「ユウウツ…」 そんな私は広いご主人様の部屋でひとり、ソファの上でぐてっとうつぶせに転がっている。 部屋主のご主人様も今はいない。大事なご用事とかで父上様とご一緒にお出かけだそうで。 私は雨が嫌いだから置いてけぼり、もとい留守番で。 「はぁ…」 本日何度目になるかわからない、湿ったため息がこぼれていった。
暇すぎて寝ようかとも思ったが、ひどく耳に障る雨の音に邪魔されてかなわなかった。 ひどく無駄に数時間ほど過ぎた気がしてきたころ。 この部屋の静寂がひかえめなノックにやぶられた。 「…?」 重たい頭をもたげて扉を見やった。開けられる気配がない。 「誰か知らないけど、入ってよ」 退屈しのぎに、誰とでも良いから話がしたかった。 迷っていたのかすこしのあいだ、扉の向こうで歩き回るような音が聞こえた。 やがて、そのコは扉の下部の私専用出入り口から、おずおずと部屋に入ってくる。 そのコは…私のよく知るシャワーズだった。 「オードリーじゃないか。どうしてすぐに入らなかったの」 「すみません、ウォーリア様。お休みになっていらっしゃるのかと思いまして」 オードリーは、代々私のお屋敷の召使いポケモンの家系の末娘だった。 同じシャワーズでも、イヴェンタスとは対照的で、オードリーはとても控えめ。 昔から召使いをやってたから、私とは主従関係があるけれど、一応幼馴染でもある。 「雨がうるさくて寝られやしないよ。そんなことより、話し相手になってくれないかな。死にそうに暇なんだ」 「きっとそうじゃないかと思って、参りました」 そう、オードリーはふっと笑った。 私は彼女が大好きだった。小さいころから、ずっと。
今はふたり、ご主人様の部屋のソファの上、壁一面の窓を叩く雨粒をなんとなしに眺めていた。ソファに座ることにオードリーは恐縮したんだけど、私は隣にいてほしかったから。 彼女がそっと、尋ねてくる。 「ウォーリア様は、雨はお嫌いですか」 「私の答えなんて、わかりきってるだろう」 「そうでしたね」 つい、口調は不機嫌がにじんで荒くなってしまう、これも雨のせいだ。 そんな風に思ってしまう、私はまるで子供だ。 それでもオードリーの控えめな笑顔は変わらなくて。 水タイプの彼女にとって雨は恵みだろう。嫌いといわれればいい気分はしないはずなのに。 少々の自己嫌悪を感じてうつむく私をよそに、オードリーは話し出した。 「私は、雨が降ると必ず思い出すことがあるんですよ」 「へえ。なにかな」 「昔のことです。ウォーリア様は、きっと覚えておられないでしょうけど」 「私と関係がある事かい?」 「ええ、関係があるも何も」 遠くを見るような目を、オードリーはしていた。 きっとその思い出を見ているんだと、私は思った。 「私もウォーリア様も、イーブイだった頃のことですよ。アサヒ様の7歳のお誕生日の2日前、ちょうどこんな雨が降っていました」 そう、だったかな… 確かに、私の記憶はあいまいだった。 いくら10年前のことにしても、ご主人の誕生日の前のことだ。なのに何かあったか思い出せない。 「それは急に降り出した暴風雨で、天気予報では全国的に三日三晩続くと報じていました。それを聞いてアサヒ様はたいそうがっかりなされて。何しろ誕生日の日は、ご家族で景色のいいので有名な湖にお出かけなさる予定でしたから」 うん、そのことは覚えている。だって、私は実際にご主人と一緒に湖を見たんだから。 …あれ? でも、記憶の中ではその日は快晴だった。なぜ? 「そんなアサヒ様が気の毒で、ウォーリア様は決心なさったのです。『ポワルンを探して、雨を止ませてもらうんだ』と…」 語りながら、オードリーは優しく微笑んでいた。そして私は、その話に心当たりがないことに首をかしげるのだった。 「ごめんね、オードリー。その話は確かに覚えていないよ」 「ええ、そうでしょうね」 特に不思議なことは無いと言う風に、オードリーはうなずいた。ますますわからなくなる。 「なぜだろう?」 「では、続きをお話しましょう」 オードリーは私の方を向いて目を細めると、また窓の外を見て語り始める。 「誰にもそのことを言わずにひとりでお屋敷を飛び出して、ウォーリア様は町中を走り回りました。雨の中では見通しも良くないし、体も冷えるのに。アサヒ様のために、ウォーリア様はそうして、半日も雨の中ポワルンを探していたのですよ」 半日も。その言葉にただ驚く。雨が嫌いな私が取っていた行動に。 「あてもないのにポワルンを探しあてるなんて、よほど運が無い限りできっこありません。ウォーリア様は走り疲れて、体温も雨に奪われて、倒れてしまいました。でもそのとき、信じられないことが起こったのです」 私は息を呑み、じっと聞いていた。忘れてしまった昔の自分の物語。 「暴風雨が突然ぱたりと止んで、雲の渦の真ん中から光が差しました。そこから、緑色に光る、神々しいドラゴンポケモンが姿を現したのです… その方はウォーリア様を見下ろして、厳かな声で言いました。 《強い意志を感じるな。その者、このような気象に翻弄されながら、そうまでして何を求める》と。 ウォーリア様は弱っていながら、はっきりと答えました。 『雨が続くと2日後の僕のご主人の誕生日を祝う旅行が中止になってしまうんだ。ご主人が悲しむから、雨を止ませてくれる力を持ったポケモンを探しているんだ』と。 《なんと》その方は言いました。《そなたの意思は重んずべきものだな。我はそなたの望みを叶えたい。この風雨は自然のものではない。普段は下界に危害をもたらすものではないが、この風雨の元となっている者たちによく言っておこう》と。 その言葉に、ウォーリア様は安堵の表情を浮かべました。 『じゃあ、雨は止むんだね』 《約束しよう》 そう、その方は強い声で言いました。 『よかった…。本当に、ありがとう…』 安心したのか、ウォーリア様はそういうと気を失ってしまいました。 《主人のもとでゆっくりと眠れよ、小さくも強き者よ》 そう一言残して、その方は光とともに雲の合間に消えていきました。…と思われましたが、実はこちらのほうがお屋敷の前まで瞬間的に移動していたのです。そのとき、アサヒ様は自ら雨具をお召しになってウォーリア様を探しているところで、すぐに倒れていたウォーリア様を見つけてお屋敷の中に運んでいかれました」 「そんなことが…」私は信じられないような思いだった。「そのドラゴンって、きっと伝説のポケモンだね。私の願いを聞いてくれたのか…」 「ええ。ウォーリア様が覚えておられないのは、そのあと高熱で寝込みなさって、疲労も相まった反動で忘れてしまわれたんでしょうね」 「そうか…」 でも、私はひとつ腑に落ちないことがあった。 「私は誰にも言わずに屋敷を出て、倒れて戻った後はそのことを忘れていたんだろう? なぜ君はその話を知っているんだい」 私の問いに、オードリーは微笑んで答えた。 「誰にも、と先ほどは言いましたが、ウォーリア様は私にだけそれを伝えてくださっていたのです。あまりに長く、お帰りにならなかったので、探しに行って見ると…」 「倒れている私とその伝説のポケモンがいたってことかな、なるほど」 「ええ」 困ったように笑いながら、オードリーは続けた。 「ウォーリア様が雨をお嫌いなのは、きっとそのときのことがトラウマになっているんだろうと私は解釈しています。でも、私にだけ、雨の中外に出ることを知らせてくださったのはどうしてか、その理由がわからなくて」 「…それは」 その理由は…君は知らない、君にはわからない私の気持ちだ。 私はご主人には心配をさせたくない。頼れる相手でありたい。 でも…君には、気にかけてほしかったんだ。きっと。 だけど、それを正直に言える私はまだいないから。 「止めずにいてくれるのは、君だけだっただろうし」 なんて、本心とは違うところを答えてしまうのだった。 でも、私の言葉を聴いた君は、きょとんとした顔をして、それから。 「そうですか。…ええ、そうでしょうね」 ふわ、と笑う。 部屋に差し込む優しい陽光のように。 いつしか雨は止んでいた。灰色の雲の切れ間から淡色の陽光。暗かった世界に、彩り。 「…オードリーは、雨は好き?」 「ええ。私しか知らないあなたの冒険があった日が、雨だったので」 「今は、私も知っているよ?」 「そうでしたね」 芝生が受けた水滴が、輝く。窓の外には雨上がりの光に満ちた世界。 思わず感銘のため息が漏れる。 さっきの話では雨を止ませてくれたのは伝説のポケモンだったけれど、私の心の雨雲を取り除いてくれたのは、紛れもなく君だった。 その証拠に、窓ガラスにうっすら映るのは私の笑顔。 「君のおかげで、少し雨の日が好きになったよ。こんな景色だって、雨が無くちゃ見られないよね」 「恐縮です」 頭を下げる、オードリーを見て。 「ありがとう、オードリー」 そう言えば、君は照れたように笑う。
窓の外に、虹が見えた。
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ボクが生まれて最初に見たもの。 あたりに散った卵の殻、自分の前足、それから。 「お前の能力は、と」 変な機械をボクにかざし…、 ため息をついた、マスターの、伏せがちな目。浮かない顔。 「…またダメか」 ボクが気を引こうとあげた鳴き声、あなたは気づく様子もなかった。
生まれてから、1年。 その日のことを思い出さない日はない。 ボクはあれからずっと、マスターから引き離されて、仲間のイーブイたちと暮らす日々が続く中、たまにボクらの顔を見に来るマスターの気を引くように行動していた。 それが、ある日。 「今日はお前に主人を紹介するよ」 久しぶりに会いにきてくれたマスターが、ニンゲンの男を連れていた。 「初めまして、これからよろしく」 メガネ越しに穏やかな色の両目がボクの目を見て微笑んでいた。 まっすぐな視線に笑顔。そのどちらも、今まで一度も与えられたことがなくて。 ボクは困って…目を伏せた。 「元気でな、イーブイ」 それが、ボクがマスターからもらった最後の言葉。 そうして、ボクは彼のポケモンになった。
――ボクの生まれた日
モンスターボールに納めてボクを連れて、彼は町の広場でベンチに座った。 そこで、ボクが入っているのを含めてみっつ、モンスターボールを放る。 ボクは芝生の上に座った。目の前には、エーフィとブラッキー。こちらを見下ろして微笑んだ。ボクは思わずうつむく。 「初めまして。わたし、エルミナと言います」 もじもじしながら、エーフィがぺこりと頭を下げた。 ボクの方がずっと年下なのに、やたら腰が低い。 「初めまして! オレはオーファ。よろしくな」 対照的に、朗らかに挨拶してきたブラッキー。 前足でわさわさとボクの頭をなでてくる。乱暴に。 きっと今ボクの頭、ポッポの巣みたいになってる。 「そして、僕はソラト。改めて、これからよろしくな」 ブラッキーにかき回された頭をなでなおして、彼はボクを抱き上げた。 ボクは、返事もできずにだまっているばかりで、「人見知りかな?」なんて言われて。 それは不本意だったけれど、だからって彼らに何も言いたいことはなかった。 彼はマスターと同じく、ポケモントレーナーだった。それから、イーブイの進化系でパーティを作ってバトルに強くなりたいんだと言った。今の手持ちはエーフィとブラッキーだけだけど、他の進化系も育ててみたいらしい。だからボクをマスターから譲ってもらったのだろう。 マスターのイーブイはたくさんいたけれど、ボクを選んだのは、彼だったんだろうか。 それとも。 ボクは彼に抱きかかえられながら、それについてずっと考えていた。
マスターはボクをタマゴから孵してからも次々と新しいイーブイの卵を孵そうとしていた。 そうして、ある日。生まれて初めて、マスターの笑顔を見たんだ。ただそれは、ボクじゃないイーブイのものになったけれど。 つまり、そいつはサラブレッドだったんだ。マスターの期待する要素を惜しみなく持った奴だったんだ。マスターは落ち着いた笑顔を浮かべてそいつを抱き上げ愛でた。あんな顔をする人なんだ、と思った。ボクはあなたのポケモンなのに、あなたの笑顔をそれまで知らなかった。知れなかった。 つまり、ボクは期待外れだったってことだ。 きっと、彼のもとに追いやられたのだって、落ちこぼれのボクがマスターに擦り寄るのが疎ましかったからなんだろう。 でも。 ボクはマスターのポケモンでいたかったんだ。マスターに育ててほしかった。優秀だったんだろうあいつにするみたいに、頭をなでて、抱き上げて、微笑んで欲しかったんだ。 そう思っていたのは、マスターの厳選に漏れたあの多くのイーブイの中でボクだけだったんだろうか? 他の奴らはボクらを可愛がらないマスターを特に気にするふうでもなかったけれど。 ボク自身、ボクを可愛がらないマスターに、どうしてこんなに執着しているのかわからないけれど。 でも、ボクは。あなたと一緒にいられないのなら、生まれたくなんてなかったんだ。
マスターが彼にボクを譲ってから1週間が経った。 旅をしている彼だったけれど、その日はポケモンセンターの中で1日を過ごすようだった。 そしてやたらと、彼らはそわそわしていて、ボクを見るとどきりとして。昼下がりには、彼が出かけてくるから留守をよろしく、という意味のことをエーフィとブラッキーに言って、急ぎ足で出て行った。何なんだろう。 エーフィとブラッキーは未だ口を聞こうとしないボクの前にそろって立った。 ブラッキーはうずうずしていた。何かを我慢しているようだった。小声でエーフィに耳打ちする。 「エルミナ、オレこういうの向いてねーよ。言っちまっていい?」 「ダメだよ、ってソラトくんなら言うだろうけど…でもわたしも、実は限界。言っちゃおうか」 なにやらこそこそ話し合ってから、ボクを見て。声を合わせた。 「「誕生日おめでとう!」」 「…えっ」 思わず間の抜けた声が漏れた。それが彼らに発した言葉の第一号。 「おぉーやっと喋ったか! お前口きけないのかと思ってたぜ、ごめんな」 ボクの声に、たかが一言にやたらテンションを上げるブラッキー。 だけど、誕生日なんて、ボクは知らない。今日はボクの誕生日? 「…驚いた顔だね、もしかして忘れてた?」 エーフィの言葉に首を横に振る。 「…知らなかったの?」 今度は縦に振った。 沈黙が流れる。 「そっかぁ。誕生日も教えてくれなかったのか? お前のマスター…変だなぁ」 ブラッキーの、その言葉が、なぜか癇に障って。 ボクは思わず「たいあたり」していた。そいつに。 しかし軽く受け止められてますます腹が立った。 「…マスターをバカにするなッ」 「はは。お前マスター大好きだったのな。ごめんな?」 精いっぱいの威嚇も、軽く笑われた。 嫌だ、った。ボクがマスターを大好き、とか、軽々しい言葉にされることが。 「…、ボクの誕生日なんて、祝う必要ないだろ」 「え?」 絞り出した言葉に、彼らは目を丸くした。ボクの感情が爆発していた。ボクのことなど何も知らないで、おめでとうなどとのんきに言われるのは嫌だ! 「ボクは生まれたくなんてなかった! ボクの誕生日なんてめでたい日じゃない、ボクを孵したマスターに望まれなかったボクの誕生日なんて!」 「イーブイ…っ」 エーフィが悲痛な顔をしてボクを見た。ボクの痛みなんて誰にもわかるもんか。 ボクは踵を返してポケモンセンターを飛び出した。
生まれて初めて、がむしゃらに走っていた。 走って、走って、走って、息が切れても走って、そしたらいつか息が止まらないかなと思ってまた走った。 もうマスターに会えないなら、生きていたくないぐらいだった。 そしたら。もうよく前が見えなくなってきたころ、何かにぶつかって転んだ。 「…! ごめんっ」 上から降ってきた声は彼のものだった。 帰ってくるところだったのかな。ぶつかってきたのがボクだとすぐに気付いてくれ、抱き上げてボクの顔をこすった。その感触で初めて、泣いていたことに気付いた。 「どうした?」 ボクを抱きしめて、声をかける、君の優しさが痛かった。 この1週間、マスターがくれなかったものを君がくれるたび、ボクは悲しくなったんだ、たまらなく。 ボクに向ける笑顔も、言葉も、優しく触れる手やそのあたたかさも、他の誰でもない、マスターからもらいたかったんだ。 君が指ですくっても、ハンカチで拭いてもそのたびに涙が流れて、ボクの目の下はすぐ腫れぼったくなる。 「あいつら、何かお前に言ったのかな? いじめたりは絶対ないと思うけど」 いじめられたわけじゃなくて、本当のところはボクが言われたことに対して勝手に腹を立てただけで、それで勝手に落ち込んでただけなんて、言えない。言うつもりもない。 滲みっぱなしの視界に、ようやく判別できた君は笑っていた。 君はもう片手がふさがる荷物があったのか、片腕にボクを抱いて、歩きだした。 「せっかくのいい日なのに、泣きっぱなしなんてもったいないぞ?」 君は嬉しそうにそう言った。いい日、だなんて。ドッキリパーティーをするつもりだったのか。そんなのたまらなかった。 「誕生日、なんて、うれしく、ない」 声を出せば、みっともなくしゃくりあげることになった。もう一生分の恥をさらしてること、自覚はしていたから、今更躊躇することはないけれど。 「マスター、は…落ちこぼれのダメな、ボクなんかが生まれて喜んだわけない…っ、ボクなんて、どうでもよかったんだっ、だから」 「誕生日は嬉しい日じゃないって?」 君の言葉に、うなずいて、答えた。 優しい声が、荒れた心に沁みていく気がした。君はボクの痛みをわかってくれるかな? ああ、マスターが君だったら、ボクはどんなに救われるかわからないのに。 「そうだな、お前のマスターは、あまりお前に構ってやらなかったんだろ。そう思うよな」 頭をなでる手が優しくて、それが余計に涙腺を刺激する。 「でもな、」 急に立ち止まるので、ボクは思わず君を見上げた。 ぼやけた視界の中央に急にくっきり映る、透き通った君の瞳もまたボクを映していて。 「もしお前がどうでもよかったなら、マスターはお前の誕生日なんて忘れていただろ?」 どきりとした。 君は片手に提げていた荷物を置いて、服のポケットからなにやら取り出してボクに見せる。 それは――。 「お前のパーソナルカードだよ。お前を譲ってもらう時、一緒に貰ったんだ」 このデジタルのいろいろが発達した時代に、それはアナログなカードだった。ボクの写真が貼ってあり、手書きの文字で書き込みがある。こんなの、いつの間に撮られたんだろう。 「お前がいつ生まれたかとか、能力のこととか書いてあるんだ。彼は育てるポケモンを選ぶのに厳しいけれど、そのために生まれたポケモンがどうでもいいなんて思っていないよ。みんな育ててやることはできないけれど、できればみんな幸せになって欲しいって、言っていた」 本当に…? ボクは信じられない思いで君を見つめた。 「この手書きのパーソナルカードがその証拠さ。しかも、彼はコピーを手元に残してる。そっちには、僕にお前を譲った日を書き足して」 ボクの疑念に答えるように、君は言う。 マスター、あなたは本当に、ボクの幸せを願ってくれたのですか。 それなら…ボクは、生まれてこなければよかったなんて、思わなくていいんだ。 「彼のこと、本当に大好きなんだな。やっぱり僕じゃ不満?」 残りの涙を拭いてくれ、君は苦笑いをした。 そんなことはないよ。マスターがくれなかったものをたくさんくれたから。 「君のことを、マスターとは呼べない。ボクのマスターはマスターだけだ」 返した言葉に、君はまた少し寂しそうに笑った。 でも君は、ボクを引き取って、優しくしてくれた。こうして、ボクの思い違いを正してくれたんだ。そんな顔をさせたくなかった。 「だけど」 勇気を出して言葉を絞り出し、ボクは初めて、自ら君の目を見つめた。 「君は、ボクの…ソラトだよ」 結局、マスターに代わる上手い言葉が思いつかなかったけれど。 だけど君は…驚いたように目を丸くして、それから。 「ありがとうな」 それは素敵に笑ってくれたんだ。 ボクはどきどきした。胸がいっぱいになる。 君の笑顔が嬉しい。ソラトの、笑顔を作れたのが嬉しいから。 「帰ろうか」 ソラトは照れ臭そうな顔をしていた。おろしていた荷物をまた持って、歩きだす。 ボクはいつまでも抱っこされているのは少し恥かしくて、身をよじるとソラトは腕を離してくれた。ソラトの数歩先を、ボクは振り返りながら歩いた。優しい目をして見守ってくれるソラトは、まさに空のようだった。
ポケモンセンターに帰る頃には、夕日が空を染めていた。白い昼間の月も光っている。 ボクはソラトのエーフィとブラッキー…エルミナとオーファに謝って、そしたら謝り返されて。 それから、ソラトが買ってきたごちそうでボクのバースデーパーティをしたんだ。 エルミナとオーファと、ソラトからお祝いされて。ボクは不覚にもまた泣きそうになって、必死で何でもないフリをする。とても嬉しかったんだけど、どうやってそれを伝えたらいいかわからなくて、みんなのように笑うこともできなくて、少し自分が情けなくなった。 「生まれてきてくれてありがとう」 そう、言ってくれた、君たちへ、ボクはやっと言葉を見つけた。 「ボクと出会ってくれて、ありがとう」 そしたら、ボクの言葉にみんなくしゃって笑って、そろってボクを抱きしめるから。 もうどんな顔していいかわからなくなってしまったんだ。
太陽と月を抱いた空に見守られて、ボクはこれから歩いて行けるよ。 ここに送りだしてくれた、マスターが、ボクの幸せを願ってくれるなら。 迎えてくれた、君たちが、ボクに笑ってくれるなら。
きっと今日また、ボクは新しく生まれたんだ。
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誕生日にボクがもらったものは、仲間と新しいボクのトレーナーからの笑顔。 それに、温かい場所、美味しい食べ物。 そして、 「お前は今日から『ガーベル』だよ」 新しい名前。
「ガーベルかぁ、なんかごつめだけどかっけーな。うらやましいぜ」 ブラッキーのオーファが、またボクの頭をわっしわっしとかき混ぜる。 「うん、かっこいい名前だね。改めて、よろしくね」 エーフィのエルミナも、淡く笑って、ぼさぼさになったボクの頭を直してくれた。 「…たしかにちょっとごついかもね」 そういう名前になったってことは、そういう活躍を期待されてるってことなのかな? 強くたくましくあってほしいとか? まぁ語感からの推測だから定かではないけれど。 「気に入らない?」 そう、こないだボクのトレーナーになったばかりのソラトは、困ったように笑った。 そんなことないよ。ボクは大きく首を横に振って答えた。 「そっか。よかった」 返ってきた君の笑顔に、ほっとする。 これからボクの名前はガーベル、か。どんな意味が込められているんだろう。 そんなボクの心の中の問いに答えるように。 「いろいろ考えてつけた名前なんだ。お前のマスターからお前を譲ってもらって、このことでお前の道は広がったかな、とか、エルミナとオーファと仲良くなれるかな、とかさ」 照れくさそうに頭を掻いて、ソラトはボクらに優しく包むような視線を向ける。 「いちばんの願いは、僕たちといて、お前がずっと笑顔でいられるようにってことだな」 その言葉にまた熱いものがこみ上げてきた。でもまた泣いてしまうのは恥ずかしくて、ぐっとこらえる。幸いソラトは気づかずにいる。それとも、気付かないフリなのか。 ボクの頭を優しく撫でて、笑う。 「じゃあ、記念撮影するか!」 「おう!」 ソラトの言葉に、オーファがノリノリで、ボクの左隣に陣取る。エルミナもそっと、ボクの右隣に体を寄せる。 いつの間にか用意されていた三脚付きのデジタルカメラ、セルフタイマーをセットして、ソラトが僕らの後ろに座った。 「はい、チーズ!」 ぱしゃり、フラッシュが眩しくて、目はつぶってしまっただろうし、うまく笑えてるかもわからない。それでも、少なくともボクは、ぬくもりに包まれながら幸せな気持ちで写真に写れていたと思う。 ソラトが写りを確認しに行く。ボクもついていって、写真を覗き込む。 「みんないい顔してるよ」 写真はボクを囲むみんなが笑顔で…そこで、ボクは。 名前の意味に気づいて、胸の奥がじわっと熱くなった気がしたんだ。
――ずっと「えがお」で。
エルミナとガーベルとオーファ。 君は、気付いた?
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――噂のイーブイマイスター
この町の有名人と言えば、イーブイマイスターと呼ばれる元冒険家であろう。 かの人は町を南北に分ける大きな長い公園の一端に、大きな屋敷を構えている。 この町一の富豪の屋敷とは違い絢爛豪華でも歴史が古いわけでもないが、その代わりに、一言でいえば華奢で可愛らしい風情のものであった。 そんな、屋敷にはこれまで多くの人が訪れていた。 ある日には。 「おじさま、ありがとう!」 年の割に大人びた女の子が、まだ幼いイーブイを腕に抱いて幸せそうに笑う。 「たくさん可愛がってあげるんだよ」 その女の子の頭を撫でる、ごつごつした大きな手。それは屋敷の主のものだった。 それは初老の男性で、こざっぱりと整えた髪には白いものが混じり始めていたが、その両目は少年のような輝きを帯びて老いを感じさせない様子だった。 またある日には。 「あぁあ、どうしよう…」 メガネの少年が、2匹のイーブイを目の前にして頭を抱えているのであった。 「腕白そうなこいつは親から引き継いだ技が優秀だ、しかしこの臆病なほうは貴重なメス…難しい選択だあぁ…」 その他にもイーブイはたくさんいたのだが、その少年はよく2匹に絞れたものだ。 屋敷の主はソファに掛けて、そんな彼を見、微笑んでいた。 「君はこの子たちを本当によく見てくれているんだね。君ならばきっと大切に育ててくれることだろう。2匹とも譲るとするよ」 「本当ですか…!」 少年は顔を輝かせると、お目当ての2匹を真剣な目で見つめた。 「お前たちは僕についてきてくれるかい」 2匹は一方はおずおずと、他方はうずうずと、笑う。それは肯定の印だった。 「やったあ! ありがとうございます!」 心の底からの笑顔を浮かべて2匹を抱き上げる彼を、屋敷の主はほほえましそうに見守っていた。 “若い頃のことを思い出すな” 屋敷の主には、少年が、若かりし日の自分に重なって見えたのだった。
時をさかのぼること数十年前、そこから遠く、シンオウ地方で、主はイーブイを求めて旅をしていた。 彼はポケモンを一切持とうとしなかった。初めてのポケモンはイーブイにしようと決めていたから。 シンオウで有名な「じまんのうらにわ」で、彼の願いは叶った。 彼はそこで2匹のイーブイに出会ったのだ。 一方は貴重なメス、他方は、これまた稀有な、色違いのオスだった。 「俺についてきてくれるか?」 2匹は彼に、それぞれ形は違えど好意を寄せていた。 微笑むメスと、無愛想に一瞥くれるオス。 「ありがとう…! 俺は、メグル。よろしくな」 それが、イーブイマイスターと呼ばれるようになる始まりだった。
「おじさま」 幼いイーブイを抱いた女の子が、館の主――メグルを呼ぶ。 回想にふけっていた彼は、女の子の声に、は、と我に返って笑った。 「ああ、なんだい」 「おじさまのお友達に会わせてほしいです」 女の子は、メグルを澄んだ瞳で見つめた。 メグルは苦笑して、「ありがとう。会ってやってくれ」女の子を手招きした。
メグルは2匹のイーブイと世界各地を冒険して回った。 イーブイたちはどんなに険しく厳しい所にもメグルに伴って歩いたし、バトルでも負け無し。 イーブイ2匹で各地のトレーナーと戦ううち、その強さから名が知れるようになった。
メグルが年を重ねる一方で、イーブイは進化することはなかった。 現在確認されているポケモンの中でもっとも進化形を多く持つ彼らだったが、メグルはその進化のための条件は必要ならすべてそろえられたのだが、彼らはイーブイとしてメグルに寄り添うことを望んだそうで。
ところで、概して生き物は体が小さいほど、長く生きることができないものだ。 人間とポケモンに流れる時間は違う。 不思議な生き物、ポケモンだとて、時がたてば終わりはくるのだ。
屋敷の中庭。 メグルと女の子は、平らな石板の前に立っていた。 女の子の腕の中の小さなイーブイも、しげしげとそれを眺めている。 石板には言葉が刻まれていた。それは難しい異国の言葉だったので彼女は読むことはできなかったが、その石が何を意味するものかはずいぶん前にメグルに教わっていた。 「こんにちは! 今日はいいお天気だね。お花も綺麗に咲いてるよ」 中庭には色とりどりの花が植えられていた。 春のそよ風に、ご機嫌そうに体をゆすっている。 メグルは女の子と石板を口を引き結んで見下ろしていた。 女の子のイーブイがもがいた。腕を放してもらって、地面に降りたイーブイは、石板を観察するようにぐるりと回って、それからその上に丸くなった。安心したような表情で。 「ご先祖様がわかるんでしょうか」 女の子の言葉に、メグルは困ったようにはは、と笑った。 きっとその小さなイーブイは、石板が太陽で温められていたのが気持ちいいのだろうから。 そう思ったが、言葉にはしなかった。
メグルがこの町に居を構えると、2匹のイーブイがタマゴを持っているのを見つけるようになった。 それからはとても遠いところまで冒険をすることもなくなり、数か月旅をして、屋敷に戻って、を繰り返した。そして、屋敷にいると、メグルのイーブイはしばしばタマゴを抱えているのだった。 タマゴが孵ってイーブイが増えると、メグルは体力の問題からいよいよこの町にずっと留まることに決め、生まれたイーブイを求める人に譲り始めた。 イーブイマイスターの名は、凄腕のイーブイ使いという意味を徐々に失い、イーブイを広める者という意味を強くした。
少しの年月を経たある日、石板の前に立つ女の子は少女になっていた。 その傍らにはシャワーズが。 隣に立つあの日のメガネをかけた少年も、少年から青年になりつつあって。 足もとにはエーフィとブラッキー、イーブイを従えている。 「ソラトさんと居合わせるとは思わなかったです」 「ホント、ユイちゃんとここで会うなんてすごい偶然だったよ」 ふたりは仲良く笑いあった。 初対面のポケモンたちは、互いにあいさつを交わしている。 「初めまして、あたしはイヴェンタス!」 「は、はじめまして…っ」 「こらー緊張すんなって、エルミナ! あ、オレはオーファっす、よろしく!」 「…ボクは、ガーベル」 「なんだ、お前も人見知りかあ?」 「ちがっ」 「仲良しなのね! うらやましーい」 「…これでも、出会ったばっかりなの…」 賑やかなやりとりを眺めて、ユイとソラトは微笑む。 少しばかり老いた、メグルも、優しい表情で彼らを見ていた。 「大切に育ててくれて、嬉しいよ」イヴェンタス、エルミナ、オーファ、ガーベルを順繰りに見て。「思いだすよ、あいつらのことを」 メグルは石板の前に跪き、優しくその表面を撫ぜた。かつての友にそうしたように。 「メグルさん、立ち直ったんですね」 「おじさま、あのときは打ちひしがれていたものね」 ふたりがイーブイを譲り受けたのは、石板が中庭に置かれて間もないころだった。 その日以来の訪問である、今日のメグルの表情は穏やかで。 「ああ、あの2匹が遺した子供たちの面倒を見ていても、どうにも胸に空いた穴がふさがらなくてね。冒険を求めるあまり、あいつらの小さな体にはたくさん負担をかけてしまった。もうちょっと気をつけていれば、もし進化させていたなら、せめて失う時を延ばせたかもしれないと」 メグルは想いを込めて石板を見つめた。 「でも、きっとご先祖様はおじさまと一緒に、イーブイのまま一緒にいるのが幸せだったんだよ! 少なくともあたしはそう思うっ」イヴが強い口調で。 「…ボクは、ちょっと気持ちがわかるかも。進化したらどうなるか、考えると少し怖くなるんだ。たくさん進化先があるから、進化してもし気に入ってもらえなかったらって。だから無理に進化させたりしなくてよかったんだよ」ガーベルがぽつりぽつりと。 「進化うんぬんとは関係ないけど」オーファも口を開いた。「死期を悟るとトレーナーから去るポケモンもいるらしいぞ。そうなった姿を見られたくないからか、詳しくはよくわからねーけど。でもあんたの友達はあんたに体を預けたんだろう。そりゃあそれだけ、あんたを好きだったってことじゃねーのかな」 「…それに、きっと」エルミナも続いた。「ずっと、あなたがお別れを悔みつづけることを、お友達は望んではいないと思います。あなたがまた笑うのを、きっとお友達は待っていましたよ」 4匹を、メグルは見まわして、笑った。その目じりから大粒の涙がぽろりと零れた。 「ありがとう。君たちに言われて、安心した気がするよ。君たちのご主人は君たちが誇らしいだろうなあ」 イヴェンタスとエルミナ、オーファは照れ笑い、ガーベルはもらい泣きしそうになって顔をしかめる。 と。 「おじさま、そのコたちは?」 いつの間に、彼の両脇に寄り添うその姿に、ユイもソラトもポケモンたちも目を見張った。 「ああ、ある日突然2匹のイーブイがうちに転がり込んできたんだ。ソラトくんが来たあと間もなくだったな」 メグルの右手が撫でた、その頭には植物の葉のように見える耳と頭の毛。 メグルの左手が撫でた、その背は薄青のつややかな毛並み、菱形の模様。 「あいつらの代わりをしますよ、というようにね。な?」 頭を撫でられた方がはにかむ。背を撫でられた方は眠たげに鳴いた。 「リーフィアとグレイシア!」ソラトが目を輝かせた。 「ロリエルと、ランチェだ」 リーフィアとグレイシアを順に読んで、メグルは微笑んだ。 「よかったら、仲良くしてやってくれ」
イーブイマイスターは、愛すべき友達の間で、幸せそうに笑った。
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気温良好、湿度良好。今日も外で遊ぶには絶好の天気だ。 リーフィアである私の、植物の組織のようになった体の部分がそう訴えるもので。 外遊びが好きな私は、いつも眠そうな相棒を連れ出して今日も公園に繰り出すの。 私のマスターは、基本的に放任主義なひとだし。 「まだ10時だぞ、ロル…」 グレイシアのランチェは目をしょぼつかせながら、それでも私の後を歩いてついてくる。まだ10時って。もう10時の間違いでしょ? 「お寝坊は損だっていつも言ってるでしょっ」 そう言ったら、それっきり不平は飛んでこない。彼にしてみれば、眠れないことこそが損らしいけれど、こんないい日に外に出ないなんて罰が当たるよ。 ところでこの町はとても平和だから、放任主義なのはマスターだけじゃない。 ポケモンはポケモンで個性的に、ひとりで遊びに繰り出せる。 そんななかでも、好戦的なやつらは、簡易的にバトルフィールドとしてしつらえられた、この町の東西に長い公園のとあるブロックに集まるの。 かく言う私も、そのひとりで。 「あ! ロリエルだ」 「今日も来たな!」 見知った顔ぶれが、こちらを振り向く。 ズガイドスのメットに、ヒポポタスのボタン。 「かかってきなよ」 開口一番に挑発を。 「今日こそ倒してやる!」 血気盛んに、メットが突撃を仕掛けてきた。お得意の“ずつき”だ。 私はそれをひらりとかわす。それがてら、 「うわっ…!」 メットの足を長い尻尾で払って転ばせる。 すかさずそこへ、“リーフブレード”を突き付けた。 「早くも勝負ありだね?」 口の端をあげてメットを見下ろせば、悔しそうに呻いた。 「くっそう! 今日こそと思ったんだけどな」 「それ、負けるたびに言ってるねえ」 ボタンがくすくす笑うので、メットはぶすっと頬を膨らしてしまう。 「お前だってロリエルに勝ったことない癖に」 「なに言ってるの。もともとが優秀な上に草タイプのロリエルに勝てるわけがないよ」 あっけらかんと、ボタンは笑った。 そんなボタンを我慢ならないという風に睨みつけて…メットは深い息を吐いた。 「おれは、そうは思わないぞ。だからまずは絶対、ロリエルを倒す!」 「あは、それでこそメットよね」 相槌を打ちつつ、私は内心ではほくそ笑んでいるのだった。 この私がタイプ相性のいい相手に負ける訳はないと。 メットの負けず嫌いで諦めの悪いところは、正直に感心してはいたけれど。 と、そこへ。 「やっぱり君たち、今日もいるんだねえ〜」 空から、呑気な声が降ってくる。 「あ、ピット!」 そのトゲチック…ピットも、近所にトレーナーと住んでいるポケモン。 よく当てのない空の散歩中に、空から声をかけてくるのだ。 しかし、今日は連れがいるようだった。 「紹介するね。こちら、ルドルフくん。最近越してきて、バトルが好きなんだって〜」 ピットが指した方から、ゆっくり歩いてくるのはヘルガーだった。 なかなかたくましい体つき。鋭い目つきも、油断ない。強そうだった。 ピット曰く、町を案内していて、バトルができるところに行きたいというので連れてきたんだそうな。 「この町のポケモンの中でも特に強いっていうのは、君か?」 ピットが私のことを何か言ったのか、ルドルフは私の方を見た。観察するような目。 これは…手強そうだ。できれば相手にしたくない。 「知らないわ。この町に強いコはもっとたくさんいるはずだし」 「…そうか、しかし、挨拶代わりにぜひ手合わせをさせてほしいのだが…」 まじめそうな顔。侮られているわけじゃ、ないみたいだけど。 対応に困っていたところに、後ろから小突くのはメット。 「なに出し渋ってるんだよ、ロリエル。あんなやつちゃちゃっと倒せるんじゃないのか?」 余計なことを。私は苦々しく小声で返す。 「炎タイプは苦手なのよ」 それを聞いて、ボタンは、「やっぱロリエルも苦手はあるんだねえ」なんて朗らかに笑ったけど。 メットはそれは腹を立てたように見えた。 「ロリエルの腰抜け!」 小声で吐き捨てて、私の前に出る。何とでも。私は負け試合はしたくないの。 「ルドルフって言ったな。なんならおれが相手だっ」 ケンカ腰のメットに、ルドルフはごく紳士的に笑う。 「よろしく」 メットは少し拍子抜けという顔をした後、改まってかしこまった。 「よろしくな」
バトルは、タイプでは有利なはずのメットが、防戦一方の展開だった。 と言うのも、試合開始早々に、メットの十八番の“ずつき”をルドルフは悠々と耐え、“カウンター”をお見舞いしたからだった。手痛い一撃を受けたメットは、攻撃の機会を慎重にうかがっている。直接攻撃技しか持っていないメットには、カウンターは脅威だった。 ルドルフはメットが攻撃をして来ないと見るや、炎を撒いて相手を消耗させる作戦に出る。そこへ畳みかけた、“あくのはどう”でメットはすくみあがった。 メットは腰を抜かしてしまって、そこで勝負あり。 「すげーな、お前…」 呆然と呟くメットに、ルドルフは近寄って、微笑んだ。 「これもマスターあっての強さだ。僕自身はまだまだだよ」 「謙虚な奴」 「そう〜、ルドルフくんて、顔は怖いけど優しいし謙虚なんだよね〜」 ピットは空から観戦していたようだ。 メットはそこでやっと足の感覚が戻ってきたようで、立ちあがって笑う。「バトル、楽しかったぜ。これからよろしくな」 ルドルフは笑顔を返す。 正直、悪い感じは全くしないけれど、私は彼に近づきがたく思った。 「よかったら、君たちとも…」 赤い色の目がこちらを向いた。私はそこに映りたくないと思った。 炎タイプは、苦手だ。 大体、私を相手にしたところで勝敗なんて見えてるでしょ? 「おいらは、パス。ロリエルも気分が乗らないらしいねえ」 ボタンが応えると、ルドルフは少し残念そうな顔をした。それから、その真っ赤な目を別の方に向けた。 その方向には、ランチェが丸くなって眠っていた。 「彼は?」 「ああ、あいつはいつもああなんだ。戦うところなんて見たことないや」 メットがランチェをあごでしゃくって、言う。 それもそのはず、ランチェは冬以外はとても活動したがらない。暖かいと眠たいんだそうな。 そして私は、不信感を募らせていた。害意のなさそうな顔して、挑むのは相性的に有利な私やランチェなのね。彼はのした相手の数を増やして得意になりたいんだ、きっと。 …しかし、意外なことに。 「バトルする?」 眠ったままと思われたランチェは薄眼を開けていた。その目はルドルフを見ていた。 メットもボタンも、私も揃って、目を丸くした。 「眠たそうだけれど、いいのかい」 訊き返されると、ランチェはのっそり起き上がり、ゆっくりとバトルフィールドに歩いて行き、所定の位置に立った。 どういう風の吹き回しだろう、と私は心の底から思った。ランチェが自分からバトルしようと言うなんて、私の方が夢を見ているのか、って。 そのうえ、タイプ相性は最悪だ。寝ることが至福のランチェが、よりによって炎タイプと戦おうとするなんて。狂気の沙汰だ。陽気に中てられて、ランチェはおかしくなってしまったんじゃないだろうか。そうまで、私は思ったんだ。 「いいんだね」ルドルフは嬉しそうに、ランチェを見た。「よろしく」 「ん」 そのやりとりが、試合開始の合図となった。 ランチェはバトルフィールドに立ちながらも、立ち寝をしているかのように目を開かず、動きもしなかった。ルドルフはすこし躊躇いと戸惑いを見せつつ、相手の出方を伺っている。ランチェは出方もへったくれもなく直立不動なのだけれど。 相手が動かないので、ルドルフは間合いを詰めた。直接攻撃の技も持っているのか。 むき出した牙から炎がこぼれる。“ほのおのキバ”、あんなの、ランチェが受けられるはずない! 「ランチェっ…!」 私がこんなに心配してやっているというのに、当の彼は呑気にあくびをしていた。…いや、あくびのように見えたけれど、くしゃみが出そうなのか? 口をむずむずさせていた。 そこへルドルフの牙が襲いかかる―― 私は目を覆った、予想していた展開を待った… だけれど、ランチェが倒れるような音の代わりに、ばしゃっと水音。 見ると、ルドルフは頭から大量に水をかぶってふらついている。どうして? 「ランチェ、すげー! 今の“みずのはどう”だ! ルドルフも絶対油断してたぜ」 「ルドルフ、混乱しちゃってる〜?」 ピットの言う通りだ、ルドルフの足元はおぼつかない。 そこへすかさず、猛烈な冷気が吹きつけた。ランチェの“ふぶき”だ。 水をかぶって濡れていたルドルフの体は一息に凍りついた。 攻撃を仕掛けた側の癖に妙に他人事のように半目を開けてそれを見たランチェ。 「俺の勝ちでいい?」なんて、ぼやく。 「どう見たってお前の勝ちだよ! すげーっ、炎タイプに勝つなんて」 メットは興奮してランチェを見上げる目を輝かせていた。傍らで、ボタンは大きな口をぽかんと半開きにしてあっけにとられている。 「そうか」 ルドルフに勝ったのに、ランチェは微塵も、喜びも誇りもせず。 訝る私に、ランチェは振り返る。 冬の夜空を思わせるその目が、いきなりキッと私を睨む。 「ロル、俺のことバカだって思ったろ」 「えっ」 「ルドルフに挑むなんてバカみたいって思ったろ」 「そんなこと…」 そんなことない、っていうのは嘘だった。 どう考えたって負け試合になると思ったから。 冷たい視線をまともに受けられずに、私は目を逸らした。 「勝てそうな奴とだけ戦って、いい気になって、負けを怖がる奴の方が、俺はバカだと思うけどな」 痛烈な言葉に、私は打ちのめされた。 返す言葉もなかった。 このやりとりを見ていたメットは怒りの表情を見せて…踵を返し、荒々しく歩き去った。ボタンはおろおろしつつメットについて行く。 体温で氷を溶かしたルドルフは、混乱も覚めていて、ランチェと言葉を交わす。 ランチェはぶっきらぼうに応えているが、珍しく淡い笑みを浮かべていた。 いたたまれない、私は――目を背けた。 「ロリエル、どうしたの〜?」 上空から声が降る。ピットも、ずっと見ていたのか。 「…ピットも、私のことバカだと思ったかな。私、今までずっと、メットは何が楽しくて私に挑んでくるんだろうって思ってた。だって、痛いのは嫌だし、負けるなんてかっこ悪いもん。…でも、当たり前のことだけど、いつも本当にバカなのは、誰かをバカにする奴なんだね。私って、ホント、バカ」 惨めさに涙が滲んだ。 でも、ピットはよくわかんない、と言う顔で。 「あのさ〜、ランチェはいつロリエルをバカって言ったの〜?」 「さっき、言ってたじゃない。あれ、私のことでしょ」 勝てそうな奴とだけ戦って、いい気になって――。私のことに決まってる。 でも、ピットはやっぱり困ったような顔だった。 「ロリエルがバカだとは、言ってないでしょ〜。ロリエルにはそう聞こえたかもしれないけど、ランチェはきっと、ロリエルはそんな奴じゃないって思ってるはずだよ〜」 私は見えない手に頭を殴られたような気がした。 全く、ピットはそう言ってくれたけれど、実際私はどうしようもなくバカだ。 言われたことに打ちのめされて、名誉挽回すら思いつかなかったなんて! 「ピット、ありがとう」 自然と笑顔が出せた。ピットはにっこりほほ笑む。 見透かしたうえで声をかけてくれていたのだとわかって、少し恥ずかしくて、でもやはりとてもありがたく思った。 そして、ランチェとルドルフに駆け寄る。 こちらを振り向いたふたりと、目を合わせる。 「ルドルフ、よかったら、バトルのお相手をしてくれる?」 「いいのかい?」 「もちろん。手加減なしよ」 「ありがとう」 赤い色の目が嬉しそうに細まる。 「僕、人見知りで口下手なんだけど、バトルを申し込むときは勇気が出せるんだ。だけど、さっきはいきなりだったし、僕はこんなナリだし、怖がらせてしまったのかと思ってた」 体は大きいのに、台詞とのギャップでどこか小さく見えるルドルフ。 ようく見れば、本当に、彼のどこからも害意なんて見あたらない。 それを見て私はつい先刻の自分を恥じる。 ごめんね、心の中で謝って。 「「よろしく」」 挨拶が重なった。 そんなやりとりを、眺めていたランチェと私は目を合わせた。 「負けるの、怖くない?」 にやりと笑う、ランチェもまた、心得顔で。 私はいい相棒を持ったものだと嬉しくなった。 さっきはごめんね。ありがとう。 心の中で伝えたことに反して、口にのぼった答えはごく強気なもの。
――「バカにしないで!」
明日メットとボタンに会えたら、謝らなくちゃ。 それに、ランチェみたいに、能あるムクホークは爪を隠すってスタイルも、なかなか賢くていいかもね。
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夢を見た。 自分が自分じゃない、夢を。
――もしかしたら今頃は
がばっ、なんて、我ながら古風な効果音とともに飛び起きた。 気持ちの悪い汗をかいていて、背筋がぞくりとした。 今は朝と呼ぶには早すぎる夜中で、すぐ隣にはエルミナとガーベルとソラトが寝息を立てていて、誰もオレが起き上がったことなんか気づいてない。 「…ったく、なんだってんだよ…」 悪態をついて、薄く開けてある窓辺に向かう。 夜風を受け、月光を浴びると、夜に適応したブラッキーの体は平静に近づく。 でも。心はそうはいかないようだ。
オレは夜は好きじゃない。ブラッキーの癖に変だよな。 明るい日差しの下で、周りで誰か話をしている、そんな時間の方が好きだ。 なぜかって言われても、よくわからん。 ひとつ思い当たるのは、生まれたばかりの時の記憶。 オレはイーブイの頃、メグルの元でトレーナーを待っていた身だったが、生まれはメグルの館ではなかったりする。 どこかよそのトレーナーの元で、イーブイの母親とドーブルの父親から生まれて、それから何らかの経緯でメグルの館に預けられたんだ。ガキん頃の話だからよく覚えちゃいねーけど。 そして元々メグルの館にいたエルミナに出会って、ソラトに出会って、今に至る。 元々オレがいたところには、なんだか温かみってもんが欠けていたようだった。会話もなく笑顔もなく。だからかな、そういう要素がより少ない夜が好きじゃないのは。
悪夢を見たんだ。 原因はわかってるさ、昼間にエルミナとガーベルと口論になったからだ。
基本的には仲のよいオレとエルミナだけど、そりゃあケンカだってするわけで。 例えばイーブイの頃。 オレとエルミナはソラトにおそろいの鈴のアクセサリーを付けてもらって過ごしていた。音を聞くたびに気持ちが穏やかになる不思議な鈴だった。 オレはその鈴が好きだったが、エルミナは反対に鈴を見ては顔を曇らせていたっけ。 その理由が気になって、オレは尋ねた。 「どうしたんだよ」 「不安なの」 伏せた目はこちらを向かない。 「何が?」 エルミナは前足で鈴を転がした。ころころと、いい音が鳴った。 「ソラトくんの望むようになれるか」 その時のオレは、本当に毎日が楽しいだけだったから、エルミナの憂鬱など理解できなかったんだ。 「そんなのなるようにしかならないだろ。エルミナは心配性だなー」 背中をぺしっと叩くと、エルミナは振り返ってこちらを見た。 見たこともない色をした目で。 そのあとエルミナは翌朝まで口をきいてくれなかった。 それだけエルミナにとっては大事なことだったんだろうけど、オレはとっても無神経なやつだったから、気にも留めなかったんだ。
昼間の口論も、思えば同じようなやり取りだったっけ。 「ボクはソラトの望むようになれるのかな」 ガーベルがため息をつくように呟いた。 「そんなのなるようにしかならないだろ」 笑い交じりに返事すると、ガーベルはオレを睨んだ。 隣にいたエルミナの目も、非難するような色を含んでいた。 「オーファは、私たちが持たされていた鈴の意味を知らなかったの?」 そんなの気にしたこともない、なんて言える空気じゃないことはさすがのオレにも分かった。 「ガーベルが不安に思ってることはわかるよ。私もそうだったの」 エルミナが励ますように言うと、ガーベルはそれはそれで少し怒ったようにそっぽを向いた。素直じゃない奴。 「お前がブラッキーになってなかったら、今頃こうして話していられたかわからないぞ。そういうことさ」 未だにオレをお前呼ばわりのガーベルは、どうもオレとはそりが合わないと感じているらしい。つっけんどんな態度も今に始まったことじゃない。 こういうとき、いつもならエルミナはまごまごしながら仲裁に入るんだけれど。 でも今回は、エルミナがはっきりガーベルの味方についたんだ。 オレは少なからず、ショックだったのかもしれなかった。 「お前ら、そんなにソラトが信用ならないのかよ」 カッとなって言い放った言葉は怒気を帯びてしまった。 エルミナもガーベルも言葉に詰まったような顔をして、それきり口を利かない。
夢の中で、オレはイーブイの姿で、綺麗な石を見つけてはしゃいでいた。 その石に触れると、とてつもない力が伝わってきて、驚いて俺が離れると、気付けば前足の色が変わっていた。何色かは覚えていないけれど、とりあえず黒ではなかったはずだ。 オレの気分は高揚していて、後ろにいたソラトに後ろ足で立って飛び付いたんだ。 でもオレを見たソラトの目は、別人かと思うような冷たさをはらんでいて。 そのまま、ソラトはオレを突き放して歩き去るんだ。 両隣りにはエルミナとガーベルがいた。どちらも、見慣れた姿じゃなかった。 ふたりとも、この世が終わりを見たみたいな顔をしていた。
オレがこの姿に進化したのは、ソラトが望んだからだってのはわかってるさ。そうなるように育てられたってことも。 だから、オレたちはソラトが…トレーナーがなすようにしかならないだろって、そう思っていた。 今までの経緯からトレーナーに気を遣ってしまうガーベルや、自分に強く自信を持てはしないエルミナは、そりゃソラトが望まないようなことは進んでするわけないだろ。 あいつらが心配していたのは、夢の中で見たようなことだ。 つまりソラトの知らないところで、ソラトの意にそぐわない進化をしてしまったり、さもなくば大切な技を忘れてしまったり…そういうことじゃないかな。 だけど、ガーベルはああいったけれど、だからって、もしオレがブラッキーじゃなかったからって、親から引き継いだ技を忘れたからって、ソラトがオレを見捨てるか? オレが言いたかったのはそういうことさ。 ガーベルの不機嫌顔を思い返して真似つつ、心の中で呟いた。
「オーファが夜中に起きてるのは珍しいな」 ソラトの声で驚いた。起しちまったかな。 「眠れないのか?」 「…まぁそんなとこ」 さすがに悪夢で飛び起きたなんてかっこ悪くて言えない。 代わりに、問う。 「オレがもし、ブラッキーに進化してなかったら」 「え?」 「ソラトは、どうしてた?」 「…昼間のこと気にしてたのか」 さすがソラトは鋭いなあ。て言うか聞いてたなら仲裁してほしかったぜ。 「難しいなあ。でもオーファのことは大事だよ、もちろんエルミナも。だからエルミナがブラッキーでオーファがエーフィでも、僕は可愛がっただろうな。まぁ今と多少扱いは変わるかもしれないけど」 「扱いって?」 「お前達を進んでバトルに出すことはしなくなるかもね」 さすがオレたちのソラトは、オレの思ったように答えてくれた。 「あいつら」ガーベルとエルミナを指して。「自分たちがソラトの思うようになれなかったら見放されるなんて言うんだぜ。失礼だよな」 ソラトはオレの言葉に笑う。なんか微笑ましいって感じの笑い方。 「まぁまぁ、ガーベルからしたら自然な発想な気がするけどな。エルミナは、相変わらずのネガティブさっていうか」 おいで、と手招きされ、オレはベッドに乗りソラトの傍らに腰を下ろす。 「もし心ないトレーナーなら…自分の思い通りにならないポケモンを見放してしまうかもしれないな。でも、それは在ってはならないことだと思う」 そりゃそうさ。そんな奴はオレたちのことを生き物だとは思ってないんだ。 「やり直しのきかない僕らの世界では、ポケモンたちの不安も当然のことだよ。だからあんまりあいつらを怒らないでやってくれ」 ソラトの言葉が、ささくれ立っていた気持ちを次第に落ち着ける。 背中を撫ぜられる感触が、遠ざかっていた眠気を自然と誘う。 確かに、こんなステキなマスターだ。失うのは嫌だよな。 「それに、これからはもっと、あえて言わなくたって、僕はお前達を見放すことなんてないんだって、わかってくれるように努力するよ」 遠のいて行く意識の片隅に、そう、心地いいソラトの声が響いて行った。
そして朝。 早起きなエルミナとガーベルが、ベッドの端に座ってソラトとオレを覗きこんでいた。 「…はよ」 寝ぼけた頭にもはや昨夜のもやもやはなかった。オレって単純。 「おはよう。昨日はごめんね」 だからエルミナが何に謝っているのか一瞬分からなかったり。 「おう、オレこそごめんな」 ソラトの言葉を思い返すと、もう悪感情なんて沸かなくて、自然に笑えた。にかっ。 「オーファ」 名前を呼んだのは、なんとガーベルだった。 「…ボクも、失礼なこと言った。すまない」 まだ目は見て言えないらしいガーベルが、だが謝ってくれて。やっとこ名前を呼んでくれて。なんだか心の底から嬉しくなる。 「おおー、いいってことよ! 可愛い奴だなー」 「なっ…やめっ。エルミナ助けろ!」 いつもの頭ぐりぐりを、エルミナはにこにこして見ていた。 ガーベルは顔を真っ赤にして頭を抱える。 「夜中に、わたしも起きちゃって」 なんだ聞いてたのか。オレも少し気恥ずかしくなる。 真っ黒な毛並みじゃそんなのわかんないだろうけど。 「わたしたちを選んでくれたのが、ソラトくんでよかったよ」 「…ボクも同感」 窓から差し込む暖かい日差しの中で、仲直りに、微笑み合う。 少し寝坊すけなオレたちのマスターが、手持ちに囲まれてきょとんとした顔で起きるのはもう数分後の話。
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――いちばんのプレゼント
去る12月23日のこと。 比較的高緯度に位置するこの町は、冬は一面雪景色。 そんな中いつものように公園に集う3匹に、いつもの笑顔がこのときだけ消えた。 「ウォー、今年はクリスマスどうなの?」 イヴェンタスがウォーリアに気を遣うように尋ね。 「悪いけど、今年も一緒に過ごせそうにないよ」 どこかさびしそうにウォーは微笑む。 「そうか…残念だな」 アキュラスはそう言い目を伏せる。 毎年繰り返される、同じやり取り。 町一番の富豪の家に住むウォーは、毎年その家のクリスマスパーティーで過ごしている。 社交パーティーでもあるそこには一般市民を気軽に正体できるわけではないし、その家の御曹司・アサヒのポケモンであるウォーもその日ばかりは気軽によそにでることはできないのだった。 一方アキとイヴは毎年シホの家でクリスマスを過ごしている。 プレゼント交換のために3匹が会うのはいつもクリスマスの翌日で。 「クリスマスパーティー、26日とかにできたらいいのにな」 「それじゃクリスマスに遅刻しちゃうでしょ。サンタさんも営業時間外だよ」 「いいよ、無理しなくて。それにその日からは年末年始の準備で忙しいだろうし」 「だよねえ」 らしくもない、湿ったため息を、この時ばかりはイヴもついた。 「まぁ、毎年のことだし気にしないで」 笑顔を浮かべるウォー。しかし、それを見るアキとイヴの意見は一致していた。 (無理している) ウォーはお屋敷の暮らしが窮屈で、クリスマスパーティーも嫌いだった。 だからいつか、ウォーをアサヒも一緒に自分たちの庶民派クリスマスパーティーに招待したいと言うのが、ふたりの願いだった。
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「ただいま」 重い気分を引きずったまま、アキはイヴを家に送った後帰宅した。 玄関でアキを迎えたのは、しかしシホではなくて。 「おかえり、アキュラス」 「ソラト、帰ってたのか」 「ついさっきね」 爽やかな笑顔に、アキは一瞬、抱えていたもやもやを忘れる。 「ホラおまえたち、挨拶」 「アキ先輩ひさしぶりー!」 「アキさんこんにちは…っ」 「…はじめまして」 ソラトの後ろに控えていたのはオーファ、エルミナ、ガーベル。 アキはメガネの奥の目を一瞬丸くして、それからふっと微笑んだ。 「久しぶりだな。新顔もいるんだな」 「ガーベル、です」 ガーベルはどこか緊張しているようだった。 「照れちゃって―、可愛いやつでしょ先輩!」 「だーっ、余計なこと言うなッ」 「いろいろあったけど、すっかり仲良しなんです」 「よろしくな、あとでゆっくり話を聞きたい」 アキが差し伸べた前足に、ガーベルはゆっくり自分のを重ねた。 微笑ましそうにそれを見ていたソラトが、口を開く。 「明日のパーティーにはウォーくんは来れるの?」 アキの表情がふっと曇ったのを見て、ソラトは「そっか」と笑う。これも毎年のこと。 「明日は先輩のカノジョさんが来るぜ! カワイイんだよな〜」 オーファがガーベルに自慢するように話す。エルミナもふわっと笑った。 「イヴさんに会えるの、楽しみ…」 「そんな大層なもんじゃないぞ」 なんてやり取りしながら。4匹とひとりがリビングへ移る。 「アキュラス、おかえり」 ダイニングから、シホが顔を出す。 お菓子作りの道具を片づけながら。 「ウォーリアくんも来れたらよかったわね」 先ほどのやり取りはシホにも聞こえていたようだ。 「無理言うと、あいつも辛いから」 オーブンの中から鼻孔をくすぐるケーキの香り。 しかしそれも、アキの気持ちを浮かせるには足りないようで。 「でも頑張るコには、サンタさんも来てくれるかもね」 シホの言葉にも、アキは少し捨て鉢に、ロマンチストだな、なんて笑う。 「サンタクロースなんて、いないだろ」 しかしシホは、ごく優しく微笑んだ。 「そう思うなら、アキュラスにサンタさんは来ないわ」 アキは何か言いたげにしたが、それきり黙りこんだ。 メガネの奥の目は、何かを思っているようだった。
* *
12月24日の朝、クリスマスパーティーの当日を迎えて、お屋敷に仕える人々やポケモンたちは慌ただしく動いていた。 もちろんオードリーもそのうちのひとりで。今は一面雪に覆われたお屋敷の庭に飾られた氷像やツリー、イルミネーションを点検しているところだった。 氷像はイーブイとその進化形を模っていた。お屋敷の主がイーブイとその進化形を代々所持していたためである。オードリーも、得意の“れいとうビーム”で製作陣に加わっていた。 ブースターを模した氷像の前で、オードリーはため息をついた。 (ああ、ウォーリア様へのプレゼントが用意できていない…) 昨年はパーティーの片づけに追われる最中にウォーからアクセサリーをプレゼントされていた。今年も何がもらえるというわけではないのだが、オードリーは妙に使命感を覚えていた。 (今年はわたくしから、ウォーリア様にプレゼントを渡すのです!) ブースターの氷像の前で、そう固く誓う彼女なのであった。 と。 「ロル、見て、すごいよあれ」 「へえっ、凄いわね!」 柵のようになった門の向こうから、グレイシアとリーフィアがこちらを覗いていた。 「凄いねえ。シャワーズちゃん、これは全部君が作ったのかな?」 その2匹を連れていたとみられる男が、話しかけてくる。 「い、いいえ」オードリーは門に駆け寄りつつ応える。「わたくしはお手伝いした程度です」 「そうか。私はそのブースターの像なんか、気持ちがこもっているようで好きだよ」 「恐縮です」 謙遜したオードリーだったが、実はブースターの像はまるひとつ彼女の作だった。見抜かれているのかと、オードリーは目をぱちくりさせる。 「私はメグルというんだ。君のお名前は?」 「オードリー、と申します」 「ステキな名前だね。こちらは私の連れで、ロリエルとランチェと言うんだ」 メグルはポケモン相手にも紳士的に会釈をして微笑む。オードリーはお屋敷仕込みの上品な会釈を返した。そこへランチェが口を開く。 「オードリーさんを、今日の夢で見たかも」 「何、ランチェったらナンパ?」ジト目のロリエル。 「ロルも夢に出てきたよ。俺と3匹で、オーロラを見ていたんだ」 「それは、不思議な夢ですね」 どういう意味だろうと、オードリーは小首をかしげる。 「オーロラか。聞くところによるとオーロラの色を作っているのはそのあたりにある窒素や酸素なんかの気体だそうだね。そんなあたりまえにあると思うようなものでも、あるときは私たちの目を楽しませてくれるんだなあ」 昔冒険をしていたころに見たこともあったな、なんて、メグルは遠くを見るような目をした。ロリエルがそれを聞いて好奇心いっぱいの表情を浮かべる。 「素敵ね。なんかその夢暗示的かも」 「そうだろうな。オードリーさんの名前を聞いて、今日の夢には意味があるかもって思ったよ」 「わたくしの名前ですか…?」 話題に置いて行かれているように感じて、オードリーは戸惑う。 「いいプレゼント、見つかるといいね」 淡く笑って、ランチェは踵を返した。メグルは軽く一礼してそのあとに従う。ロリエルもまたオードリーにお辞儀をすると、「今のどういうことー?」とランチェに突っかかりに行った。 残されたオードリーは、きょとんと立ち尽くすのだった。 (不思議な方たちでした…でももしかしたら、わたくしはさっきいろいろ声に出していたのかも…) 色々考えこんでひとりで顔を赤くして、しかしオードリーはふるふると頭を振って、自分の仕事に戻るのだった。
* * *
日が暮れ、星が瞬き始めるころ、パーティーはいよいよ始まろうとしていた。 メグルは屋敷の主とイーブイ好き同士として付き合いが深かったので、毎年クリスマスには招待されていた。朝とは一転し、なかなかに色好い装いである。 ロリエルとランチェも少しばかりおめかししてメグルとともにパーティに出席していた。 大広間には、目にも楽しい豪勢な料理の並んだテーブル、その隙間を埋める、着飾った人々と澄まし顔のポケモンたち。 「私こういうの初めて」 ロリエルは毛足の長い絨毯の上で落ち着かなそうに身を固くしている。 「俺だって…なんかここ眠いなぁ」 「ランチェったら外では元気だったのに、暖かい所ではすぐそんなこと言って」 「仕方ないだろ、寒い方が全身の細胞がしゃきっとするんだ…ふあ」 「ふわ…あくび移っちゃった…私もなんか眠い…」 「おいおい、まだ乾杯してもいないぞ」 メグルは眠気をこらえるロリエルと眠い目をしたランチェを苦笑交じりに見下ろす。 と。会場内が急に静まった。 一段高くなっている所から、拡声機を通して声が響く。 屋敷の主が二言三言挨拶をし、「聖なる夜に乾杯」グラスを掲げる。 誰もが笑顔でそれに従う中、主催者の傍らでグラスを持つ赤い髪の少年だけは口を引き結んでいた。隣のブースターもまた。 メグルは訝って、グラスに口をつけもせずに彼に近づいた。 「…あれ、メグル?」 眠気を振り払ったロリエルと、立ち寝を始めたランチェを取り残して。
* * * *
「どこ行っちゃったのかしら」 ロリエルはひとり、メグルを探していた。 ランチェはと言うと、しっかり尻尾を巻きつけてはぐれないようにしている。眠ったまま歩けるようで、引きずられたりはしていなかった。どちらも器用なことである。 「あんまり動かない方がいいかな…」 比較的空いたテーブルの近くで立ち止まる。 人より背の高いメグルだが、この人混みの中からでは頭の天辺も足先も見えやしない。 「はあ、まったく」湿ったため息をつく。 「いかがなさいましたか」 恭しく落ち着いた声。ロリエルが振り向くと、そこには。 メイドの証の白いリボンを身に付けた、シャワーズが。 「あなたは昼間の…オードリーさん」 「ロリエルさん、でしたよね。何かお困りでしょうか。朝に一緒にいらした方がいらっしゃらないようですが」 「そうなのよ、もう、コマったひと。探すの手伝ってもらえる?」 「目が利くわけではありませんが…わたくしに出来ることならやりましょう」 「ううん、ふたりなら心強いわ」 「あら、ランチェ様の方は…」 「戦闘不能よ」 「左様ですか」 ロリエルは少しほっとした…つかの間。 「ちょっと、そこのメイド」 高飛車な声がした。振り向くと、その主はイーブイ。 宝石やリボンで飾り立てられ、毛並みも整っている。マスターはよほど金持ちなのだろう、趣味はよくないが、などとロリエルは思った。 「これを、ウォーリア様に渡してくるのよ」 そう言って、オードリーに渡したのはラッピングされたプレゼントだった。これまた装飾過多なものだった。イーブイが持つには重そうなほど。 「かしこまりました。お渡ししておきます」 「今すぐに行くのよ。そしてあたくしのことを良く伝えておきなさい」 余りの高圧的な態度にロリエルは目を吊り上げる。しかし怒りを口には出さなかった。オードリーが余りに穏やかな対応をするので。 「承知しました」 頭を下げるオードリーをふふん、と鼻を鳴らして精一杯見下げると、そのイーブイは振り向きざまに尻尾でオードリーの顔を打って、去って行った。 「…やな感じね。大丈夫?」 「馴れっこです」 声をひそめてロリエルはオードリーの顔を伺った。予想に反して、彼女は表情を崩しておらず。感心し、同時に少し呆れもした。 「あんな感じ悪いのがごろごろいるの?」 「そんな風に思ったことはありませんが…よくあることですよ。それより、お気づかいを有難く思います」柔らかく目を細める。「そして、申し訳ありません。先にあの方のお言いつけを守らなければ」 「それは気にしなくていいけど…ウォーリアさんって、ここのお坊ちゃまのブースターよね。私たちのマスター、ここの旦那様と仲がいいから、挨拶しに行ったりしてるかも。だから一緒に行くわ。ウォーリアさんにも会ってみたいし」 「左様ですか。では参りましょう」 オードリーが歩き出す。ロリエルはその後に従った。ランチェをしっかり尻尾でつなぐのは忘れずに。 人混みの中を迷うことなく進む、後ろ姿の尾ひれはどこか下がり気味であった。 隣に追いついて顔を覗き見ると、心なしか伏せがちな目。 「やっぱり疲れているんじゃない?」 問いには答えず、オードリーは呟くように。 「…ウォーリア様にお会いしたい、と言うのは…」 「え?」 …いえ、と顔を背ける彼女を見て。(ああ)ロリエルは悟る。 「ウォーリアさんが好きなんだね」 急に後ろから聞こえた声にオードリーとロリエルは飛び上った。ランチェは半目を開けていた。その視線の先ではオードリーが耳まで顔を赤くしていた。とさ、と先ほどのプレゼントの包みが床に落ちる。 あんたねー起きてたなら言いなさいよ、尻尾に癖がついちゃうでしょ、俺引っ張られなくたって付いていけるのに、なんて言い合いをする2匹。オードリーは口をぱくぱくさせた。「どうして…」 「けっこうわかりやすいよ。夢の中でもそう言ってた」 「はあ…」 あんたね―少しはデリカシーってものを、とかみつくロリエルを無視し、ランチェは続けた。「安心して、ロルがウォーリアさんに会いたいのはブースターと会ったことがないからだよ」 「…そうですか」 当人は気付いていなそうだが、表情が穏やかになった、と2匹は思った。 「失礼しました。ウォーリア様の元までご案内しますね」 プレゼントをしっかりリボンでくくって背負うと、オードリーは歩き出した。
「オードリーさんはパーティーの間休めないの?」 「わたくしはメイドですので」 「好きな相手に、別のコのプレゼント持っていくの?」 ずけずけ質問するランチェをロリエルは横目で睨む。 「送り主が近くに居ながら手渡しされないプレゼントは、ウォーリア様はあまりよく思われないのです」 「だから気にはならないと」 「といいますか、メイドは言いつけられれば従わなければなりませんので」 「そういうものか」 ランチェは難しそうな顔をする。その一方で、オードリーは遠慮がちに口を開いた。 「ところで、今朝の夢と言うのは…」 「ああ、ランチェは変な夢を良く見るのよ。いつも寝てるから」 「いつもじゃないぞ」ロリエルにくぎを刺すランチェ。 「ロリエルと一緒に夢の中で、シャワーズさんとオーロラを見ていたんだ。そのコは好きな人へのプレゼントに悩んでいた」 「それがわたくしだと思われたのですか」 「俺たちはその夢の中で繋がったんだよ」 意味深なランチェの言葉にオードリーは目を白黒させる。 「確かに、今朝も、数日前からも、もしかしたら昨年のクリスマスからも、わたくしはそのことで悩んでいたかもしれません」 「まだ決まってないんでしょ」 「恥ずかしながら。何を渡せばいいか、わからないのです」 オードリーはすっかりメイドから普通の女のコの顔になっていた。 少なくともロリエルとランチェの目にはそう映った。 「物じゃなくても、心があればいいのよ。それはあなたにしかあげられないものだわ」 ロリエルの言葉に、オードリーの目の奥で光がともったようだった。 「…ひとつ、思いつきましたが、わたくしは今日いっぱいはパーティーに従事せねば…」 うつむくオードリー。一方ロリエルはぱっと笑った。 「じゃあメイドのオードリーさん、今日中にウォーリアさんにプレゼントを渡して! 命令なら、やり遂げなくちゃいけないんでしょう?」 ロリエルのウィンクに、オードリーはぱちくりと瞬きする。 ランチェは感心するようにロリエルに頷いた。 「…かしこまりました」 恭しく、オードリーはロリエルに頭を下げた。 再び顔を挙げた時の、その表情は喜びと緊張がないまぜになっていた。
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メグルは先ほどの少年の元へ程なくしてたどり着いた。その傍らで行儀よく座るブースターは耳に青い石のピアスをしていた。 少年はドレスで着飾った貴婦人とタキシードをまとった小太りの男爵と話していたようだったが、メグルを見るとそのふたりは頭を下げてその場を離れた。 それを見送って。 「メリークリスマス、アサヒくん」 その声で振り返った少年は、メグルを見上げると笑顔を作った。「今晩は、メグルさん」 「久しぶりだね、大きくなったなあ。ウォーリアくんは相変わらず大切にされているようだね。そのリボンタイはよく似合っているよ」 メグルの褒め言葉にウォーも笑顔で応えた。 「友人に贈られた物で、気に入っているんですよ」 身をかがめてウォーの背を撫でると、メグルはグラスを差し出した。アサヒも同じ動作。 「良い夜だね、アサヒくん」 「ええ、メグルさん」 「本当にそう思っているかい?」 微笑むメグル。アサヒの笑顔が揺らぐ。 「パーティーは好きではないようだね」 「わかりますか」 アサヒは口元は笑みの形のまま、どこか睨むような目線をメグルに向けた。隣にいたウォーも、メグルに淡い敵意を滲ませていた。 落ちた沈黙を破ったのはアサヒの低い声。 「クリスマスは、大切なひとと過ごす愛の日でしょう。この部屋では、そんな存在はウォーリアぐらいです。屋敷の外、すぐ近くに友達がたくさんいて、好きなコもいるウォーリアと比べたら、僕の歯がゆさなど大したことないのでしょうけれど」ハハ、と渇いた笑いをもらし、アサヒは大広間を見渡した。「今夜ここに来ているのは、父様の懇意にしている人たちであって、僕にとっては違う。屋敷から出られないなら、僕はウォーリアと過ごせさえすればいいんです」 ウォーはアサヒの足元にぴったりと寄り添う。同じ痛みを共有しようと言うように。 なるほど、とメグルは頷いた。 「確かに、そう思うのも無理はないかもしれない」 「お説教は聞き飽きていますよ」 先手を打つように、アサヒは肩をすくめた。 「お説教なんて、私はできる立場ではないが」 メグルは朗らかに笑うと、急に子どもを見るような目をした。 「パーティーを開くのは、君がいずれ後継ぎとなるからだろう。君のお父さんは自分の仲良くなった人を君に知ってもらいたいんだ。君が上手くやっていけるようにね。それもひとつの愛ではないかな」 「その中に僕が仲良くしたくなる人はどれだけいたかな」吐き捨てるようにアサヒは言った。「僕に取り入りたいだけの奴の方が多いんじゃないですかね」 「それは言い過ぎかと思うが。君のお父さんはきっと、色々な人のことを見てほしいのだと思うよ。そうした人の思惑を見極める力も」 「全く有難いことですね。涙が出そうです」 ウォーが悲しそうな目で主人を見上げる。 「生まれって、選べないんですよね」 アサヒの手がウォーの頭を撫ぜる。同じところに向いた目は、しかし何も映していないようだった。 メグルは、アサヒの肩を優しく叩く。 「そうさ、だから今ある自分の世界を大切にするんだよ。君がここに生まれなかったら、ウォーリアくんとは出会えなかっただろうね」 アサヒは何も答えなかった。だけど、ウォーは主人の目が揺れたのを見た。メグルにもそれはわかったかも知れなかった。 と。 「メグル!」 聞こえた声に振り向いた。そこへリーフィアが駆け寄ってくる。 その後ろからグレイシアもゆっくりメグルに近づいた。 「ロリエル、ランチェ」 「もお、のっぽの癖に見つからないんだから。とんだ迷子ねっ」 「すまない。お前たちなら付いてこれると思っていたんだ」 「“あくび”を受けてなけりゃ、そうしたわよっ」 ロリエルが捲し立て、メグルは苦笑した。ランチェは我関せずといった風である。 「ウォーリア様」 続いての穏やかな声に、「オードリー、どうしたんだい」ウォーが尻尾を翻して振り向く。一瞬明るくなった表情は、だがオードリーの持っている物を見て強張った。 「これをすぐにお渡しするよう言いつけられまして」 「…ご苦労だったね」 ウォーが受け取ったプレゼントを見て、アサヒが囁いた。 「いつものコからだね」 「…全く。私に近づきたいのなら直接渡せばいいものを」 ため息と伏せた目。 「君は仕事に戻るといい」 「かしこまりました」 形式的な礼のあと、オードリーは躊躇いつつ、口を開いた。 「あ、あの、ウォーリア様」 「なんだい」 「その、2時間後に、正門近くの氷像のところまで来ていただきたいです…」 消え入るような声。ウォーは驚きを見せ、それから顔を輝かせる。 「いいよ。何に招待してくれるのかな。待ちきれないよ。1時間後ではだめかい」 「それでもかまいません」 「ありがとう」 ウォーはひどく幸せそうに笑った。緊張で目を潤ませたオードリーが、しかしほっとしたように淡く笑い返した。 「では、失礼します」 一歩下がって一礼し、オードリーは人混みの中へ消える。 「メグル、私たちもオードリーさんと行くね」 「行ってきなさい。迷子にならないように」 「メグルに言われたくはないな」 苦笑するメグル。ロリエルとランチェは目配せし合うと、オードリーの後を追った。 一連の流れを、アサヒは羨むような目で見ていた。 「いいなあ、ウォーリアは」 「何をおっしゃる。ご主人も一緒ですよ」 「いいのかい」 「もちろんです。ここは息苦しいでしょう」 そこで初めて、アサヒの顔にこどものような明るい笑みが広がった。 メグルは愛情をこめてウォーを撫でるアサヒを見届けて、微笑みを浮かべたまま静かに歩き去る。
* * * * * *
それより少し前。 暖かい部屋の中、温かい料理の並んだテーブルを、笑顔の3人と5匹が囲んでいた。 「メリークリスマス!」 打ち鳴らされたクラッカーからのリボンが、クリスマスツリーのアクセントになる。 「今年もご馳走美味しそうだなあ」 ソラトが感心すると、シホが微笑み、ユイは少し照れたように頭をかく。 料理はシホとユイの作、ケーキのデコレーションはイヴとエルミナがしていた。 「エルミナ、器用なんだね」 ガーベルがぼそりと呟くと、エルミナは頬を赤らめて柔らかく目を細めた。 「褒めてくれて嬉しい」 「さー、食べようぜ! オレもう腹ペコ」 オーファが料理に手を伸ばすのを合図に、それぞれ自分の皿を満たし始めた。
食事が片付いた頃、シホが8等分に切り分けたケーキを皆に配って。 ソラトとそのポケモンたちが早速フォークを入れる中。 「ウォーは今頃どうしてるかなあ」 イブが遠くを見る目をした。 「どうしてるかな」 アキは目を伏せる。 エルミナ、ガーベル、オーファとソラトはケーキを食べる手を止める。 「お屋敷のクリスマスパーティーって豪華なんだろうなあ」 「でもアサヒさんとウォーリアくんは好きじゃないそうね」 ユイとシホの言葉に、アキは頷く。 「あいつ毎年パーティーの料理はろくに食べないと言うから、心配だ」 「一緒にいて楽しい、本当に大切なひとと、過ごしたいって言ってたね」 うつむく2匹を見て、ソラトはため息。 「そうか、お金持ちっていうのも楽じゃないんだなぁ」 「もったいねーな。そこは楽しんだ者勝ちじゃん」 「オーファはソラトくんたちと一緒の小さいパーティーよりも、ソラトくんたちのいない豪華なパーティーの方がいい?」 「そうは言ってねーけどさ…」 「やっぱり好きなひとと一緒に居られる方がいいよね。ボクもそのほうがいい」 皆が黙り込む。 イヴはふと、手持ち部沙汰になっていた手にケーキの皿とフォークを持った。 「…! お前っ」 アキが慌てる。その理由は数秒後。 かしゃんっ ケーキが乗っていた皿はうつ伏せに床に落ち、ケーキはアキの顔に張り付いていた。 他6名は目を丸くし、ユイはシホに申し訳なそうに頭を下げ、オーファは吹き出したいのをこらえる。エルミナはおろおろしていた。 「わわっ、ごめんアキィ!」 「…このバカ! 毎年同じことやって。学習しろよな」 「ううっ、ごめんなさい」 「別にいいけどさ…」 イヴのケーキを手にとって食べるアキ。口調は荒いが、顔に浮かんでいるのは怒りと言うより呆れだった。本当に毎年のことらしい。お前はこっち食べろよ、とアキが自分のぶんをイヴに差し出すのもいつものこと。 イヴはと言うと、お礼を言うでもなく。テーブルにばん!と手を付いて立ちあがった。 「あたし、やっぱりウォーも一緒にクリスマスを過ごしたいよ…」 顔についたクリームを布巾で拭ってもらっていたアキは、シホの手をほどいてイヴに向かい合った。 「じゃあ、そうしようか」 「できるの?」 「頑張るコのところには、サンタがやってくるんだろ」 にやりと笑うアキ。イヴの大きな目が丸く見開かれて、それからスッと細まる。 「そうだよね。いっちょやりますか!」 笑みが交わされて、イヴはケーキに手もつけずに飛び出していく。アキもそれを追いかけていく。 「アキったらたまにはやるじゃない」 シホが微笑ましそうに目を細めた。ユイとソラトは戸惑っている。 「あれって、ウォーリアくんを連れてくるってことでしょうか」 「さあ…」 その一方で。 「なんかおもしろそーだな! ウォーさんにも会ってみたいし、追いかけよーぜ!」 「えっ、えっ、いいのかな…でもウォーリアさんにも会ってみたいね」 「しょうがないな、ボクも付き合うよ」 3匹も家を飛び出した。ソラトとユイはシホを見る。 「あのコたち、忘れ物していったわ」 「えっ」 シホが手に取るのはクリスマスツリーの下に置いてあったふたつのプレゼント。 アキとイヴから、ウォーへのもの。 「届けなくちゃ、ね」 「私も行きます!」 「僕も行くよ」 3人は頷き合った。 小さなツリーの天辺の星が、頑張って、と言うように瞬いた。
先に外に出た2匹は道の途中で立ち止まっていた。 街灯が照らす夜道で、白い息を吐いて。 「食べてから走るとつらーい…」 「鍛えが足りないな。もっとも食べてなくたってイヴは走るの遅いだろ」 「でもケーキ食べてくれば良かったなぁ…あ」 イヴがアキの口元を見て。その顔が近づくので、アキは焦った。 ぺろり。 「さすがシホさんのケーキ。美味しい〜」 どうやら口元にケーキの欠片がまだ残っていたようだった。アキは舐められた所をばっと抑える。 「お前な…っ」 「アキったら照れてる〜」 「うるさい。街灯の加減だろ」 照れ隠しに苦しい言い訳。今が夜でよかった、とアキはひそかに思った。 今しがた走ってきた所に、3匹の影が見えた。 「さ、行くぞ」 遠くに見える、明るく光るお屋敷へ。
* * * * * * *
もう少しで、約束の時間。 星の瞬く寒空の下、氷像の並ぶ道にオードリーとロリエルとランチェはいた。 「冷えるわねえ…」 「マフラーもベストも着てるのに? 俺はちょうどいいな」 「氷タイプには、一生分からないわ…」 歯がかちかちと鳴るほど体を震わせるロリエル、快適そうに伸びをするランチェ。 「ウォーリア様…!」 オードリーはと言うと、遠くに赤いふたつの影を見とめて、身をこわばらせた。 程なくしてウォーとアサヒが3匹の前にやってくる。 「勇み足して早く出てきたつもりだったんだけど、じいやにつかまってしまったよ」 「それは大変でしたね」 「この氷像、ポケモンたちで作っていたよね。オードリーはどれを作ったの?」 門から屋敷への道に整然と並ぶ氷像に感嘆のため息をつくアサヒ。 オードリーは恐縮しながら、「こちらです」と、ブースターの氷像を指した。 「そうなんだ! ちょうど、これが一番出来がいいなと思っていたんだよ」 「そんな…勿体ないです」 「耳に青い石が付いているね。これは私なのかな」 オードリーが恥じらいつつ「はい」と答える。ウォーはにっこりした。 アサヒもウォーの喜びを自分のことのように思っただろう。 「わたくしから、ウォーリア様にプレゼントがあるのです」 「えっ」ウォーはきょとんとした。「これではないのかい」氷像を見上げて。 「その、オプションと言いますか…」 見ていてください、と勿体つけて、オードリーは天を仰いだ。 そして。 「うわあ…!」 夜空を見上げた、アサヒとウォーが思わず声をあげた。 オードリーの“オーロラビーム”が作り出す幻想的な色に目を奪われて。 オーロラに照らされ、氷像たちも思い思いに輝きだす。 「ステキね…」 「俺たちもお手伝いしようか」 そばで見ていたロリエルとランチェも、示し合わせて技を構える。 ランチェは“こなゆき”、ロリエルは“ねがいごと”。 穏やかに舞う氷の粒で彩られた夜闇に、光の筋が一瞬走った。 「何これ、すご〜い!」 「素晴らしいな」 この光景を見てか、正門の向こうから声が上がる。柵越しに見えた声の主は。 「アキュラス! イヴェンタス!」 ウォーがこの日一番驚いた顔をする。門を開きにアサヒが走った。 「えへ、ダメ元で会いに来ちゃった!」 「本当に会えるとは思わなかったがな…」 「この寒いのにこんなところまで…お連れの方は?」 アサヒとウォーが2匹の後ろを見る。エルミナ、ガーベル、オーファと、彼らのマスターたちが並んでいた。 「ウォーさん初めまして! アキ先輩から聞いてますよっ」 「は…初めまして」 「おふたりがそれは会いたそうにしていたので、わたしたちもお会いしてみたくて付いてきてしまいました」 3匹がお辞儀する。ウォーは驚きと喜びが混ざってどうしていいかわからなそうにしていた。 「わあ、こんな近くでアサヒくん見るの初めて…じゃなくて。どうも、うちのコたちがお邪魔しまして」 「ウォーリアくんすごい毛並みいいですね! どういう風にしたらこうなりますか」 ユイは緊張し、ソラトはウォーに夢中で挨拶にならない。戸惑うアサヒ。 「こらソラト」ぽか、と弟の頭を小突いて。「すみませんね。私たちは忘れ物を届けに。まぁウォーリアくんやアサヒさんにひと目会ってみたくもありましたが」 とシホが微笑んだ。アサヒも笑顔を返した。 シホとユイがそれぞれ手に持っていた包みを、アキとイヴに手渡す。 受け取った2匹は、改まって小さく咳払いをして、声をそろえた。 「メリークリスマス、ウォーリア!」 差し出されたプレゼントを、ウォーは震える手で受け取る。 「ありがとう…私からも用意していたんだが、取りに行かなくては」 「いえ、ここに」 オードリーがふたつの包みを差し出す。紛れもなくウォーリアのプレゼントだった。 実に出来たメイドである。アキとイヴはただただ感心した。ウォーはそれ以上に、寒さでない何かに震えていた。 「これを…君たちに。メリークリスマス」 嬉しすぎて笑いそこなったような顔をしたウォーから、アキとイヴはプレゼントを受け取って笑い返した。 「来年はぜひ、私たちの家に来てください。無理な話かもしれませんが」 シホはアサヒに軽く会釈して、立ち去ろうとする。 「待ってください」 アサヒはたった今激しく走っていたかのように強く打つ心臓をなだめながら、続けた。 「僕は、今、皆さんとここにいたいです」 シホより早く、ソラトとユイが「いいんですか」急いて答える。 「もちろんです」 アサヒが笑う。泣きそうな顔で。 オードリーがそれをみて目を細める。 ロリエルとランチェが、エルミナとガーベルとオーファが、笑顔で集う。 「サンタって、居るんだな」 「何言ってるの。みんなが誰かのサンタなんだよ」 アキュラスとイヴェンタスがプレゼントを大切そうに抱える。 (こんなに嬉しくていいのだろうか) ウォーリアもふたつのプレゼントを抱えて、目が潤むのをこらえていた。 (雪が、降らないかな) そうすれば、目元で雪が解けたんだと言えるから。
――いちばんのプレゼント END
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冬は俺の好きな季節。
――冬と春
雪道を歩くのが好きだ。 一面の新雪の絨毯に、惜しみなく足跡を刻む。
その日は珍しく、昨夜の雪が融けずに残っていた。 春も近いのに、すごく冷え込んだようで。
太陽の光に照らされた、雪道がきらきら光るのが、すごく好きだ。 まるで宝石が敷き詰められているようだ、と思う。
「ランチェって、冬は元気なのよね」 「ロルは元気ないよな」
寒さのせいか、座りこんでかたかたと震えているロリエル。 マスターに服を着せてもらって、マフラーまで巻いて、それでも寒いみたいで。 葉のような耳先や尻尾、頭や体の芽も、寒さで縮こまっているようだった。 俺はそんなの、必要ないのに。
「暖かいと眠くなるんだよ。寒い方が頭がはっきりする」 「ホント、私とは真逆ね」 「まあ、仕方ないよ」
リーフィアのお前は春や夏が好きだし、活動しやすいんだろうから。 そういうところで、草タイプと氷タイプって、正反対なんだろうな。 冬に属する、グレイシアとは本来は相容れないんだろう。 どうしていつも、隣にいてくれるんだろうか。
吐息で前足を温めているロル。 白く煙って空気に溶けるそれは、さっきまではお前の一部だったもの。 俺の息も白く。 セカイに溶けていく、俺の一部。
天気雪が降ってきていた。見上げる青い空の中に映える白。 ふわふわ、ふわふわ。 陽光を受けて輝く白い花弁は俺の頬に降りてきて、すうっと融けた。
それを見てか、ロルは震えながら呟いた。
「氷タイプでも、体は雪より温かいのね」
俺は目を丸くする、そこへ。 お前は近寄ってきて、体を寄せる。
「冷たいだろ、俺の体なんて」 「表面はね。でもずっとくっついてると温かいのよ」
よほど寒いのが嫌なのか、ぐりぐりと頭を押し付けてくる。 それとも俺とくっついていたいのかな…なんて。
氷タイプの俺に触れて、温かいって言うのはお前ぐらいだろうな。 そういうお前の方が、誰よりも暖かいと思う。 春の陽気みたいな、穏やかな暖かさだ。
冬は俺の好きな季節。 でも、真冬よりも今日のような日が、もっと好きだ。 きっと、お前は俺にとっての春だから。 冷たい冬にそっと寄り添って、抱きしめてくれるんだ。
冬と春を繋ぐ時間。 雪も風も温められて。 溶けて混ざる、冬と春。俺とお前の吐息。
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冬にはいつも雪の上に身を横たえる。白い欠片を散らす灰色の空をぼんやりと仰ぐ。白く煙って消える自分の息を眺める。 そのたび、氷より冷たくなれたらと思っていた、いつかの自分を思い出すのだ。
――雪解け
バトルで活躍できるような優秀なイーブイを求め、「厳選」なることをしていたトレーナーの元で、同じ時期に生まれた俺と彼女は所謂「厳選漏れ」同士だった。 厳選漏れ達は基本的に互いへの関心が薄かったが、彼女はその例にも漏れ、なぜか良く俺に声を掛け、他愛無い話をしてくる奴だった。俺は暇さえあれば寝て居たいような奴だったが、彼女の声は耳に心地よかったので、気付けば一緒に居ることが多くなっていた。 生まれて数か月のある晴れた日についに、彼女に手を引かれて箱庭を抜け出した。外の世界は色鮮やかで、俺は目を回した。眠い目と耳を容赦なく突き刺す光と音の刺激は、生まれた所にずっと居たなら得られないものばかりだった。 ふたりで歩くうちこの街にたどり着いた。大きな公園に人間とポケモンの笑顔が溢れている。俺は導かれるままに歩きまわった。 そうして、メグルの洋館にたどり着いたんだ。開け放たれていた扉から中を覗いて、探検していくと、中庭があるのを見つけた。そこに、メグルが居た。彼は俺たちを見ると大きく目を見開いて、そしてその目にいっぱいの涙を浮かべた。 「よく来てくれた。こっちへおいで」 そうして、俺たちはメグルとともに過ごすようになった。 最初に貰ったものは名前だった。ランチェとロリエル。このおかげで、俺は彼女――ロリエルを呼べるし、ロリエルは俺を呼べる。とても大切な宝物だ。
メグルの洋館に来た頃から季節が巡っていくにつれ、俺たちとメグルは親密になっていった。メグルは俺たちをそれは大切にしてくれている。最初から今この瞬間まで。 ロリエルはいつも素直に感謝を返すのだ。しかし俺は彼女のような愛想は持たず、素直さも無く。何も返せない俺になぜ笑いかけてくれるのか、分からなかった。 最初の冬、雪を初めて目にした。雪に覆われた世界の色と静けさに俺はひどく惹かれた。雪の上に身を横たえ、白い欠片を散らす灰色の空をぼんやりと仰ぐ。白く煙って消える自分の息を眺めるのが好きになった。 寒い日に外に出たメグルが冷えた手に白い息を吐きかけるのを見て、白い息は温かいのだと知った。 色を失くした世界のように自分の息からも色が消えればいいのにと、その時思った。
いつだったか、ロリエルがリーフィアに進化したいと言いだした。メグルはそれを叶えようとシンオウへの旅を計画してくれた。 シンオウでの旅は楽しかった。一日一日が宝物のようだった。美食に定評がある地方で、行く先々で食事に舌鼓を打った。 ひとまずの目的地がハクタイの森だった。自然のエネルギーが濃い場所だと、環境に影響されやすい種族柄そう感じた。苔むした大きな岩の周りでそれは一層強まった。 それは巨大な進化の石のようで、進化の意志のない俺ですら体がざわついた。ロリエルなどは手を触れるか触れないかというところで進化が始まった。体のところどころに森を溶かしたような姿になって、満足げに笑う顔がとても眩しく見えた。 命の色を取り込んだ彼女を見て、俺にふさわしいのは何色かと自問した。答えは、自ずと明らかだったろう。
せっかくシンオウに来たのだからと、北端の町キッサキシティまで足を延ばした。道中、テンガン山を抜けたところに広がる雪に閉ざされた白い世界が、やはり好いと感じた。色音鮮やかな世界も悪くないけれど、危ういほどの白さと静けさの方に俺は惹かれた。 ロルは「物好きね」とばかりに縮こまって震えていた。植物のような耳先や尻尾は雪国の乾燥した冷たい空気が厳しいらしく、つやが薄れて曇った色をしていた。イーブイの時とは感覚も違うのだろう。緑を取り込んだ彼女の体は寒さを苦手にしていた。
苔むした岩の対となる、凍りついた岩がある場所へ行ってみようとメグルが言った。 吹雪の日だった。もっとも、その一帯は雪の降らない日がほとんど無いそうなのだが。防寒対策はしっかりしていたが、ロリエルは歯をがちがち鳴らしていた。メグルは登山経験もあったようで平気そうだったし、俺などは気分が高揚して体が熱かったけれど。 深い雪の中を泳ぐように進む。メグルの腰まで埋まるような所では、俺はメグルに抱えてもらった。ロリエルはついにモンスターボールに引きこもった。無理もないか。 着く前に雪だるまになってしまいそうだと思った頃、不意に吹雪が晴れた。突然俺は体が熱くてたまらなくなった。理由は明白だった。厚い吹雪の幕が開けたそこには、凍りついた大きな岩がそびえていたから。そこだけぽっかり雪雲が晴れて、傾いた陽光の下、大岩は慎ましく輝いていた。 「これは綺麗だ…」メグルがほう、と息を漏らした。「自然のエネルギーが凝縮されているから、だろうなぁ」 ボールの中に居たロリエルも、外に出てきてその岩を直に目にした。 「すごく冷たそうなのに…もう進化している私でも、なんだか体の奥が熱くなる気がする。あの岩がそうさせている気がする」 まぎれもなくそうだ。寒さのせいでない震えに俺は、この岩に、雪に氷に惹かれているんだと思った。 そっとそこへ、歩いて行く。一歩ごとに震えも体の奥の熱も大きくなる… この熱を根こそぎ消し去ってくれないか?
そこへ、猛吹雪が襲った。 「う…!」 「きゃああ!」 背後でメグルが腕で体をかばい、ロリエルが身を切る冷気にたまらず叫ぶ。 「ロリエル、戻れ!」メグルがモンスターボールを掲げた。「ランチェ、危険だ。出直そう!」俺の体も、赤い光線に包まれてボールに収納されてしまう。 そのさなか、ボール越し、吹雪の向こうに、巨大な樹のような影を見とめた。 “立ち去れ、そして二度と近寄るな” 体の芯を射竦めるような声が聞こえた。影の主の声だと直感する。 メグルは外套を被りなおしてその場を後にする。凍りついた岩から5分も歩けば吹雪は嘘のように晴れた。 「やれやれ、山の空はきまぐれだな」 メグルとロリエルは先ほどの声が聞こえなかったのだろうか、安堵の表情を浮かべていた。と言うことは、俺だけが拒絶されていたのだ。何故だろう? その頃には大分日は傾いていたので、俺たちは近くのロッジに泊まることにした。
夢を見た。昼間のあの氷の岩が俺を見下ろしていた。 岩は大きく口を開けて俺を取り込もうとする。 望むところだ、と、俺は抗わずに突っ立って居た。 しかし、喰われる瞬間に氷の岩に映ったのは――
そこで、衝撃によって目が覚めた。何が起こったのか分からず辺りを見ると、ロリエルの前足が俺の顔のそばに投げ出されていた。寝返りに頭を打たれたらしい。思わずため息を漏らす。 窓から月明かりが差しこんでいる。外は晴れていた。そっとロッジを抜け出して、雪道を歩いていく。幸いにしてあの後新しく雪は積もっておらず、軽い俺の体はさして雪に埋まることもない。野生ポケモンたちも寝静まる深夜に、雪明かりでほの明るい道を迷わず、あの場所へ。道は間違えようもなかった。近づくたび体が燃えるように熱くなるから。 しかし、先ほどメグルが掻き分けた道中の吹雪がまたしても襲ってくる。目を開けて居られないほど激しいそれは、俺の歩みを止めさせる。 “近寄るなと言ったのが、聞こえなかったか” 吹雪の向こうから、暴風をも揺らがす声がした。 「三度目は無いから、勘弁してくれないかな」 伝わるかどうか、ぽつりと言った言葉が届いたのか、急に俺の周りだけ、吹雪は止んだ。そして顔を上げると、目の前に命を持った樹氷がそびえていた。俺の背丈の何倍も高い所にあるユキノオーの両目が、こちらを睥睨し、雪に覆われた口が問うた。 「死にに来たのか」 「はいと答えたら、そうさせてくれるのかい」 「いいえと答えようが、黙って帰すわけにはゆかんな」 ユキノオーは俺をぐいと見下ろす。押しのけてでも死にに行くと言うならやってみろと言わんばかりに。悲しいかな、俺にはそんな力は無い。 「何故そのように死に急ぐのだ」 ユキノオーの背後には凍りついた岩が、月の光を受けて輝いていた。願わくはその中に取り込まれたい。俺を完全にしてほしい。 「答えたら遂げさせてくれるのかい」 中途半端な才能で生まれて、何もできないわけではなく何でもできる訳ではない。優れた誰かには必ず劣ってしまうなら、何をしても無駄だろう。ただ与えられた時間を浪費するだけの生ならいらない。 生きて居たくなかったんだ。鼓動が止まればいいのに、とそう思っていた。雪の中に埋もれていればいつかそうなるだろうと、そうしていたんだ。 でも。 そういう時、決まって聞き慣れた声が耳に届くから。 「ランチェ!」 そういう時、決まってお前が俺を探しに来て手を差し伸べるから。 「何してるの、こんなところで!」 「早く帰ろう、ランチェ」 その手を振り払われる想像もせず、温かな手を差し伸べるから。 俺は吸い寄せられるようにそこに自分のそれを重ねるのだ。 そうしていつも、俺は救われてしまうのだ。 「…どうして」 そんな俺が生きるのを無条件に許してくれるお前は。 愛してくれるお前たちは。
「何なんだよ!」
声の限りに叫んで、その手を振り払う。「ランチェ?」俺を呼ぶ、その目が揺れる。 「お前たちのそういうところが嫌いだ!」 俺の生に寄り添おうとするな。俺は生など捨てたいのだから。 「構わないでくれ!」 とん、と彼女を突き放す。 ロリエルの目が烈しくなる。命を育む土色の目が燃える。 「そんなこと出来る訳ないじゃないっ」 言うなり、長い尻尾で俺の頬を張る。俺は吹っ飛ばされて雪の上に倒れる。 体を起こすと目に入った、ロリエルの顔は、涙に濡れていて、俺はぎょっとする。 「私はっ、あんたのその目が嫌いだったの!」後から後から頬を滑り落ちる涙は、彼女の足元の雪を溶かす。「目を向けてても見ていない、この世界なんて見えていないって感じの目、嫌いだったの! だから何かを本当に『見て』もらえないかと思って、メグルと一緒に色んなものを見せてきたのに! 雪を見つめていたのは、自分を死なせてくれそうだと思ったからなの!?」 涙に濡れても、こちらを見据える彼女の目から、卑小な俺が映りこんだ目から、俺は目が離せなくなっていた。 嫌いなら、なんで、そうして泣くんだ? そこへ。 「きゃああぁ!」 吹雪に巻かれ、細かな氷の棘に刺されてロリエルが叫ぶ。 悲鳴を聞いて、背筋が凍る。いくら風と雪に巻かれてもここまで体は冷えなかったのに、こちらに吹雪を浴びせかける、ユキノオーの冷たい目に、足がすくんだ。 「くそッ!」 ロリエルを巻き添えにするのは御免だ。そのためには… 俺は吹雪の中を突進する。ユキノオーの背後の岩をめがけて。奴を飛び越えようと跳躍する、が、俺の跳躍力ではそれは叶わず、尻尾を掴まれ宙づりにされた。俺を掴んだ奴の手が冷気を発して俺の体を氷漬けにしようとする。 「…っ!」 「望みを叶えてやろう。あのリーフィアも道連れだ」 「させ、るか…!」 絶体絶命だった。体が震える。 氷漬けにされかけているのに、全身が燃えるように熱くて… 一瞬真っ白になった視界が開けたとき、世界が少し広く見えることに気づき、前足の色の変化に気づき、そして自分の中の新しい力に気づいた。 眼前の凍りついた岩に映る自分の姿は、イーブイではなくグレイシアのものだった。 ユキノオーが目を見開く。こうなれば氷漬けなど痛くも痒くもない。 大きく息を吸い、勢いよく吐いた息には冷気が乗る。 「『こごえるかぜ』…!」 ひるんだユキノオーが手を離した。俺はすかさず身を翻す。 「ロリエル!」 もう冷たくもない吹雪の中に飛び込んで、その体を庇うように覆い。 吹雪を跳ね返す鏡を展開した。 「『ミラーコート』か」 勢いが倍に増した吹雪がユキノオーに返っていく。が、奴も氷タイプだ、効き目は薄いだろう。 悠々と攻撃を耐えた、奴は、しかし反撃に出ては来なかった。 代わりに氷と雪に覆われた口が言葉を発した。 「お前を完全にするのは死では無い」 それだけ言うと、奴は踵を返す。一瞬の猛烈な吹雪がその姿を隠し、止んだ時にはもうあの巨体は見当たらなかった。 俺は雪にまみれて気を失っていたロリエルの体を起こして名前を呼ぶ。 目を開けた彼女は俺の姿を見て目を瞬く。「…ランチェ?」 どんな顔をしていいか分からず頭を垂れた。するとそこに前足が置かれた。 ぽんぽんと、あやすように。 「ごめんね。嫌いじゃなくて、辛かったの、あんたの目が遠いのが」 迷惑だったね、という声は、震えていて、俺はたまらなくなる。 きっと俺も、嫌いじゃなくて、辛かったんだ。 「そんなこと謝るな。俺こそ、すまなかった」 ロリエルの目を見る。温かな色、柔らかい光を見つめる。その色が揺らいだ気がした、瞬間彼女は顔を背けてしまった。 「本当よ、このバカ。メグルにも迷惑掛ける前に、早く帰るわよっ」 そうして雪道を駆け出す、彼女に、もう今の姿なら追いつける。 ふたりでロッジまで走る最中に、ありがとう、と小声で言えば、もう、反省しなさいよね、と厳しい言葉。 そうだな、これまで気づかなかったなんて。 俺は完全になりたかったのでも死にたいわけでもなかったんだ。 俺は、何が出来るか分からなかったんだ。俺は。 「どうして、俺を気にしてくれたんだ?」 それを知りたかったんだ。 問いかけは、ロリエルの目を白黒させ、顔を赤くする効果があった。 「ば、ば、ばか! そんなんじゃないわ! 自意識過剰!」 ご丁寧に「アイアンテール」で俺の顔をぶって、そっぽを向きつつ。「…ごめんね、痛かった?」なんて、地面に転がった俺にしおらしく手を差し伸べてくる。 見上げた雪の世界を背にしたお前は、どうしようもなく綺麗だった。 ああ、思い返せば花の咲き乱れた小路も、雨に打たれる地面も、晴れ渡る空もみんな美しかった。雪と氷とも等しく。もう一度その景色を瞳に映せば、俺も美しくなれるだろうか。 そして命の色は、どうしたことか、耳まで真っ赤に染まりながらはにかんで、もう一度だけ「ばか」と呟いた。
今日もまた、雪に寝そべっていた俺を探しに来る。 「雪に埋もれるの、好きね」 「頭が冴えるからな」 「いつかみたいに凍死未遂はやめてよね」 主人も俺たちを呼びに来た。 「おやつを食べようか、ランチェ」 屋敷に戻るメグルの後、ロリエルの隣を歩きながら、俺は冷たい空気を胸いっぱい吸い込んだ。吐きだす息は白く煙って消える。 いつか白い息を吐けなくなるまで、どうかずっと隣に居させて欲しいと、今の俺は願うのだ。
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