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晩秋の華と涼 −鷹橋晋一の紅葉狩り−
【3】


 日原鍾乳洞は関東最大の鍾乳洞、天上から垂れ下がる鍾乳石と、聳え立つ石筍の荘厳さが悠久の時を語ってくれます。湧水や奇岩も点在し、誰が名づけたか仏界をあらわす名前がところどころに付けられております。『賽の河原』なんて場所もあるぐらいで、東京にいながらにして俗世を忘れることができそうです。
 特に、洞内は天然の冷蔵庫。年間を通してほぼ変わらぬヒンヤリとした空気を感じさせてくれます。真冬にくれば逆にほっとする暖かさかもしれませんね。「紅葉もきれいだが、ここもなかなかに捨てがたいと思うんだが、どうかい?」
「ちょっと、こんなスゴイ所があるんだったら、最初から教えなさいよ!
 ブツブツ…」
 女房の心はこの秋空のごとく…とは、いやはや…。せっかくの秋晴れにもかかわらず、雲行きを心配してしまいます。
 センベイの音が途絶えました。ゴミはちゃんと持ちかえってくださいよ…。
 鍾乳洞を出ると、女房は言うまでもなく、私ですらも俗物に立ち戻り、ヤマメとキノコそばに舌鼓を打ちました。シメジの歯ごたえとそばのコシとを交互に味わい、ヤマメの身にかぶりつく。身体もほのかに暖まり、また次の箸がのびる…。これぞ山の味覚、といえましょう。女房のほうはもうただ無心に味わっているようで、いやはや百まで生きるんではないかと今から達観してしまいます。
 …しかし、天然の冷蔵庫である洞内ならいざ知らず、未だに肌寒さが続きます。いくらそばのツユをいただいても身体の芯まで暖まらない、というかただ寒いだけではないような、言いようのない不快感を覚えます。
「…食べ終わったら湖行くぞ…ここはなんだか肌寒くていかんね…」
「その言葉を待ってたのよ、やっぱり奥多摩といえば『湖と紅葉』ですもの…ズルッ…ズルズルッ…」
 山道を引き返して国道に戻ると、平日とはいえ少しずつ車の量も増えてまいりました。特に奥多摩湖の入り口でもある小河内ダムあたりまで来ると、
「平日で、本当によかった…」
 とため息をもらしてしまう車の数。そう、私と同じ考えで有休をとって来る方々ですね。車を停められそうな場所に来るまでには、そういった方々をやりすごしやりすごし…
 と、久々の運転でいやがおうにも私の神経は針よりも尖ってきます。きっと来週あたりこの「針」が私の胃袋をチクチクと突き刺すことでしょう。しかし胃の痛みはまだまだ先の話ですが、件の悪寒はおさまるどころか次第に強さを増してきました…。何かこう、人前で顰蹙を買ってしまったときに突き刺さるような、「しまった…ど、どうしよう…」
 といったあの肌寒く気まずい雰囲気、にも似ています。 (…もしや…)
 そう、誰かが私を見ていやしませんか…そう、先ほどから…じっと…。
「梓、ちょっとミラー見てくれないか?」
「どうしたのよ急に?」
 渋滞とはまだ呼べない交通量ではありますが、後ろのクルマに素行よからぬ連中が乗っていて、マイペースな私たちの車をあおっているのではないか、と。今私に考えられるのは、それぐらいではないでしょうか?
 まさか…それ以外に理由も思いつきませんし…。
「別に、なにもないわよ。白い車と赤い車ががのんびり付いて来てるだけ…」
「…そうか…すまない…」
「あんまり変なこと言わないでよ、ただでさえ久々の運転なんだろうから…
 …いやでも今すぐどこかに停めて欲しくなっちゃうわよ…ブツブツ…」
 そのまま奥多摩湖の奥、小河内神社あたりに車を停め、女房に景色を見せてやることにしました。先ほどからバリボリとむさぼっていたセンベイをきらしてしまったのか、あまり私に対する返答も気持ちのよいものではありません。
「じゃ、ちょっとそこら辺で景色でも見ていてくれ。車をちゃんとしたところに停めてくるから」
「…そうね、ならアタシはコーヒーでも沸かしておきましょうか、バーナーもあることだし」
 ここいら辺がその、何というか女房と親しくなったワケ、とでも言いましょうか。 学生時代のある年、山岳部でハイキングに来たとき、ちょっと薄着で来てしまいまして、クシャミやら身震いやらが止まらなかったことがありました。
 そんな私にコーヒーをいれてくれたのが、仁郷(にごう)梓…そう、今の女房だったんですよ。彼女の持参したランタンやバーナーの質、そしてそれらを扱う腕前は当時のメンバーの中では際立っておりました。そのバーナーこそ、今女房が組み立てている『思い出のバーナー』なんです。
 あれから15年…センベイをバリボリと食べはするようになったものの、彼女の湯沸しの腕前はいまだ健在… だと思います。ええきっと…そうですとも…。 と、いうことで女房に湯沸しは任せ、ひとり車を停めに行く私。正直誰も隣にいないと先ほどから続く悪寒がなおいっそう不快なものに感じられます。神経の図太さからいって、正直彼女の方が一家の大黒柱にふさわしいのではなかったか、などと邪推までしたくなるほどです…、ハイ。
(早く、車…降りたくなりますね… ブルブルッ…)
 一秒でも早く降りたい一心でハンドルとミラーとに神経を尖らせると…

「うわぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああ!!!!!!!!!!」

 確かに隣には誰も乗ってはおりませんでしたが、
 後ろの座席に…「お客様」がいらっしゃいました… 
 ミラー越しから見える膝元は…半透明だったと思います…

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