二人の活仏の歩む道
今年のチベットの正月は西暦で二月六日。私がラサ(中国チベット自治区)でチベットの正月を迎えるのは昨年に続き今回で二度目である。
一月七日、私は中国四川省の成都より飛行機でラサに入り、飛行場から車でラサ市内に向かった。車中、私の心は昨年の賑やかで活気に満ちたチベットの正月を想い描いて弾んでいた。
ラサを離れて一年もたたないが、市内には初めて見る新しいホテルや百貨店などの建物が目につく。 驚異的なスピードで、ラサの町は中国化が進んでいる。最近のチベットブームで観光客が急増したこともあるが、中国政府による移民政策で漢民族の流入があとを絶たない。ラサの人口の七割以上が中国人であるという巷の噂も、まんざら嘘ではないように思える。
その午後、チベット人のタクシー運転手(四〇代後半)から「カルマパ一七世、インドへ亡命」の第一報を聞かされた。
「ギャワ・リンポチェ(ダライ・ラマ一四世)のいないチベット(中国チベット自治区)で、唯一の心の依り所であった偉大なるカルマパが、インドのダラムサラへ亡命してしまった。もうチベットには精神的指導者と呼べるラマはいない。これからは誰を頼って生きていけばいいのか?
もうチベットは死滅したと同じだよ。でもね、とても残念だけど、これでカルマパが自由な国で真の仏法を学ぶことができるのなら、それはとても喜ばしいことだ。そしていつかチベットへ戻って来てくれれば・・・」と悲嘆の胸の内を彼は話してくれた。
私は突然のことに驚愕し、「いつ? ルートは? 理由は? 同行者は?」と矢継ぎ早に尋ねた。
「そのへんの詳しい情報は知らされてないんだよ。テレビのニュースでカルマパは、前代カルマパ一六世の黒帽と大事な経典を取りにインドへ行った、といってる。でもそんなの嘘さ。中国人は彼に容易なく圧力をかけ、訳のわからない愛国教育の勉強をたっぷりとしてきた。そのために、かわいそうに彼は何度かノイローゼになってしまったこともあるんだ。だから結果的にこれでよかったのさ」
今回のカルマパ亡命について、チベット人はどのように受け止めているのか聞いてみると、彼らは中国政府がカルマパを政治目的で利用しようと目論んでいたのを知っていて、彼が無事に亡命できたことを心から喜んでいるようだ。「チベットは空っぽになってしまったけど、これでよかった。カルマパが法王様(ダライラマ一四世)のもとで素晴らしいラマとして成長することを心から祈っている」というチベット人も多い。
しかし、その一方で、最近のチベット人の若者、特に都会に住む者は無神論的で、経済の安定している現状に満足しており、この件に関して無関心なのも事実だ。彼らのもっぱらの関心は、新しいファッションや流行のお店にあるようだ。
さらに詳しい情報を求めて、友人の僧にカルマパ亡命の経緯について尋ねてみると、「確かにカルマパはチベットを離れたが、公式にはまだ亡命とは発表されていない。だからこの件に関しては軽々しく口にしない方がよい」と忠告された。
実際ここチベットでは、密告者やスパイが人種を越え、多く存在しているのである。特に僧侶・尼僧に対して中国政府は、宗教を徹底的に撲滅させるために彼らを牛耳り、自由を拘束している。寺院には、政府から派遣された教育係などが駐在して、常時、監視の目を光らせている。そんな環境の中で彼らは警戒心を強めざるをえず、自分の気持ちを正直に語ってくれる人は少ない。
「政治的なことは身内でも話題にできない。告げ口する者やスパイが多く、本当に誰も信じられない。だから自分の感情は表に出さず胸にしまっておく、それが一番賢明なんだ」……彼の言葉はチベットの厳しい現状を表しているのであろう。
ラサ滞在中、カルマパの住んでいたカルマカギュ総本山ツルプ寺へ行こうと試みた。しかし、ツルプ行きのバスはすべて運休していた。ツルプ寺内でも僧侶は抑留され、寺周辺は武装警察によって警備が強化され、近寄ることさえ不可能だとチベット人たちは話してくれた。巡礼者はもちろん、ましてや外国人である私などはとても行ける状況ではない。私はあきらめざるをえなかった。
お正月を目前にひかえたラサの町は、早朝、夜が明けきらないうちから忙しそうに動き出す。ジョカン寺(七世紀、ソンツェンガムポ王の妻が釈迦像を祀るために建立した寺で、現在、チベットで唯一活気がある)や、それを取り巻くパルコル(巡礼路)で五体投地の礼拝をする者、読経する巡礼僧、巡礼に来た遊牧民の家族、ジョカン寺への参詣者など。彼方此方で、声明や真言が聞こえ、サン(お香)の香りと、その煙がジョカン寺を包み、神聖な雰囲気を醸し出している。そこは信仰心深いチベット人の明るい笑顔に出会うことができる唯一の場所である。
一月一四日、いつものようにジョカン寺へ行くと、カルマパのご両親と末の弟に偶然、出くわしたのである。彼らは数人の僧侶を連れて参拝をしており、見るからに疲れ切っている様子だった。私が挨拶をして話しかけてみても、外部との接触を警戒しているようで、口を閉ざして何も語ってくれなかった。
ジョカン寺の僧侶の話によると、「彼らは中国政府の命令で、ラサを離れてチャムド(チベット東部の街)へ行かなきゃならないのさ。彼らの警備は非常に厳しくなっているから、この先大変だよ。亡命もままならないだろう」という話であった。
一月一六日、ジョカン寺でレティン・リンポチェ七世(チベット仏教ゲルク派高位の活仏)の即位式が執り行われた。
前日からジョカン寺では一般人の参拝が規制され、慌ただしく準備がすすめられていた。パルコルは全面通行止めにされ、多くの警察や治安部隊がバリケードを張り巡らせて警備にあたっていた。チベット人には多人数でまとまって歩くことや、夜間外出を禁じる通達がなされたが、レティン・リンポチェ即位式典のことは彼らに知らされていなかった。
当日、パルコル内にいくつもの検問所が作られ、参拝に来たチベット人たちはジョカン寺へ近寄ることさえできない。周辺の建物の屋上には、多くの軍人がライフルを構えて監視に立ち、緊張した雰囲気が漂っていた。午前八時、ジョカン寺からチベッタンホルンの音が鳴り響き、式典は挙行された。
一〇時を過ぎた頃、ジョカン寺から役人たちを乗せた車が出てきたことで式の終わりを知った。即位式は問題なく執り行われたようだ。
すぐにジョカン寺へ行き、式典の様子を僧侶に尋ねてみたが、「僕たちは式典の最中は、それぞれ部屋で待機していたから、詳しいことは何もわからないよ」と語るだけだった。式には高僧や中国政府の役人が多数参列したが、外部の人間はもちろん、ジョカン寺の僧侶でさえ数名の選ばれた者以外は参列できなかったようだ。
チベット最高指導者であるダライラマの承認なしに、中国政府独自で慌ただしく行われたレティン・リンポチェ即位式。カルマパの件で失態を演じた当局は、カルマパに変わる後継者をチベットの安定のために素早く打ち立てる必要があり、この即位式を何としても無事に終わらせなければならないため、警備は必要以上に厳重なものになった。
その日、夜のテレビニュースでは「レティン・リンポチェ七世即位式」の様子が放映された。中国政府が選んだ転生者は、カム地方(チベット東部)出身の小さな二歳の子供で、あどけない表情が、重々しい表情で儀式を執り行う僧侶とは対照的だった。彼も今後、中国政府の政治目的のために利用されるのであろう。
そのような状況の中、チベット暦の正月はやって来た。
日本とは違ってこの時期は一番賑わい、チベット最大の祭りといってもよい。大晦日はまず家族で夕食を済ませ、美しいチベット服や装飾品で着飾り、そしてジョカン寺へ詣でるのである。実際にジョカン寺が開くのは夜一〇時なのだが、順番待ちのために皆早くから並ぶのが常である。
寺の開門と同時に並んでいた群衆が一斉に走り込み、頭を地に着けて参拝をして廻る。ジョカン寺ではモンラム・チェンモ(大祈願祭)の際にダライラマが使用していた玉座が美しく飾られ、その前で巡礼者や参詣者は皆五体投地を繰り返していた。彼らはダライラマの長寿祈っているのであろう。初詣は翌日の夕方まで行われ、ジョカン寺は人々の熱気で満ちていた。
しかし今年のチベットの正月は、カルマパ亡命の影響で、例年の華やかな活気はまったくなかった。中国政府は群衆の集まる催しに神経をとがらせ、伝統的な行事をことごとく中止させ、チベット人の集まるパルコル周辺には絶えず多くの治安警察が立っていた。
ラサに五年ほど住み着いてる西洋人は、「昨年は、チベットの文化はあと三〇年はもつだろうと思ったが、今年はもう一〇年ももたないと確信するよ」と語っていた。
確かに新しい世代のチベット人達は中国経済の発展に関心を持ち、チベット独自の文化や風習には興味が薄れ、彼等のアイデンティティーは着実に死滅への方向へ向かっている。
この様な状況の中、チベットの文化は本土を離れ、外の世界で変容しつつ活発化するように思える。カルマパの今回の出国劇はこれを端的に示しているのではないか?
私の友人であるもう一人のリンポチェについて話したい。
ケルサン・リンポチェは現在二八歳で、チベット・カム地方ナンチェンの出身。少年期に憧れのラサでチベット薬学を学び、数年後ヒマラヤを越えて、亡命チベット人となった。ネパールで英語学校に通い、友人とバイクを乗り回す、どこにでもいる普通の青年だった。そんな彼が一九九七年に転生活仏の認定を受け、二五歳にして初めて赤い 袈裟を纏うことになった。
三年前、バロンカギュ派の僧侶に「あなたはナンチェンのミンドゥリン寺の三代目の生まれ変わりである。時期を選んでナンチェンへ戻り即位式をする」と言い渡された。
彼は突然の申し渡しに動揺し、「なぜこの年になって? しかも仏教など勉強したこともない。前世の記憶だって残ってない。絶対にできない!」と即答した。
「ミンドゥリン寺の三代目はこの世にあなたしかおらず、ナンチェンの人々はあなたを心から待ち望んでいるのです。あなたはチベットのこの大変な時期に、チベッ
トの人々の幸せを考えず、自分のことしか関心がないのかね。少し時間をあげるから、よく考えなさい」
僧侶の言葉に彼は六カ月間悩み続け、大いなる決意をした。
一九五〇年代から中国軍の侵攻が始まり、平和だったチベット人の生活は激変した。
中国に痛めつけられ、食べる物さえなくなり、彼の姉二人は餓死してしまった。このとき嘆き悲しんだ両親は、長男を除く子供たちをすべて僧・尼僧にすると誓ったが、彼だけは反発して僧にはならなかった。
「今思うとそんな両親の信念が、このような結果を招いた気がする。それに今も続くチベットの苦難を思うと、僕は残された時間を、愛するチベットと一切衆生のために祈ることに決めたんだ。これから仏教を一から勉強するのはとても大変だけどね(笑)」
剃髪し、厳しい前行を終えた彼の顔に、僧としての自信を窺わせた。
そしてその夏に私は、チベット・ナンチェンへ、ケルサン・リンポチェの即位式に参列するために同行した。中国青海省王樹から車でナンチェンまで行き、即位式が執り行われる寺までは馬に乗り換えた。
小さな花がたくさん咲く大草原の中にポツンと点在する寺院の屋上から聞こえるギャリンの音は天まで響き、また草原を囲む山の頂からはサン(薫香)の煙が濃紺の空に漂っていた。そして遠くから馬に乗った大勢の村人たちが迎えに来たのである。村人たちは一列になってケルサン・リンポチェのまわりを一周し、目的地まで導いてくれた。
即位式の当日、みんなが早朝から慌ただしく動き出すと、彼の緊張と不安は増し、「もう後戻りはできない。これで自分の一生は決まってしまう」――そのような迷いと焦りの表情を見せていた。
式典は二時間ほどで終わり、そのあとに村人や遊牧民が活仏のご加護を受けるためにカタ(白い布)を手に恭しく一列に並んで順番を待っていた。擦り切れた紙幣を大事そうにお布施すると、誰もが嬉しそうに満面の笑顔を浮かべていた。彼らは本当に敬虔な仏教徒である。暮らしは貧しくとも仏法を信じ、慎ましやかに生きている。
しだいに落ち着きを取り戻したケルサン・リンポチェは、地元の僧侶たちとも親しげに話していたが、私にこのように語った。
「美しい僕らの土地と信心深く思いやりのある彼らのためにも、慈悲の行を実践できるように頑張るよ」
数日後、私たちはミンドゥリン寺院跡を見に行った。それはことごとく破壊され、土壁だけが山の斜面にひっそりと残っていた。
「当時、先代や僧侶たちはここで殺されたんだ。今では生まれ変わった僕しかいない。早くミンドゥリン寺の僧を育てなくては」
現在、ケルサン・リンポチェは台湾にある実兄の仏教センターで仏教を学んでいる。
カルマパ一七世、レティン・リンポチェ、そして友人ケルサン・リンポチェ。転生活仏といっても、この三人の歩む道はあまりにも対照的である。
それを取り巻く人々の見解も僧俗、世代、地域などによって差が見られる。その差は
年々大きくなっており、ある立場の人間はこれを“解放・発展の側面”であると捕らえ、また“文化の死滅の危機”だと考える人もいる。
この二つに歩み寄りは今のところ望めそうもないが、近視眼的な見方ではなく、彼らの子孫が確固たるアイデンティティーと自信をもって暮らせる世界になることを望む。そのために想像を超えた苦労と努力をしているチベット人は少なからず存在する。手段もさまざまで、カルマパのように亡命する人もいれば、チベットに戻る人もいる。
ケルサン・リンポチェも将来はチベットに戻って村人たちのために生きようとしている一人なのだ。彼のようにチベット人の心の拠りどころになるべく、今までの生活を捨て、厳しい修行に耐えている者たちも多く出ているのである。これからも私は彼らとともにいたいと思う。 |