あるチベット人の生
チベットの老人を見ていると、その顔に数々の神秘を孕んでいるように思えます。そ
れは年月と多くの経験が深い皺を刻み込むと共に、厳しい自然の力が生気を吹き込ん
でいるからなのでしょう。またその反面、天真爛漫な童子の愛くるしさも合わせ持っ
ているのです。
もう何年も前にチベットの山懐を旅していたある日、気のよさそうな老婆が「長旅で
疲れたろ」と私の手を取り家へ案内してくれました。僅かな家畜と痩せた畑から出来
る作物で生計を立て、慎ましやかな生活をしているこの家の人達は、私に惜しまずご
馳走を振舞ってくれたのです。
滞在している間は77才になるこの老婆アマ・タシが我が子のように私を大切に扱って
くれました。そんなある日、彼女がそっと自分の半生を語ってくれました。
「私は23才の時に地元の人とお見合をして結婚したんだよ。そして二人の子供を授っ
た頃から中国人が少しずつこの土地へ入ってきた。それまではチベットは自由でとて
も幸せな日々を送っていて、3番目の子供が生まれてからは中国の人民解放軍が本土から様々な物資を運び込み、私たちにやさしく振る舞っては、物資を無料で配給してくれた。だけど自分達は必要以上の物はいらないからと断っていたのさ。その頃の彼らはとても紳士的で、畑仕事を手伝ってくれたり、病人がいれば薬もくれたものだっ
た・・・」
「それから何年かして、沢山の中国人が何処からかともなく宝石や仏具、タンカなど
を私達の村に売りに来るようになった。こんな田舎のちっぽけな村にだよ。私たちは
これを不思議に思っていた矢先、妙な噂を聞くようになったのさ。“中国がダライラ
マ法王の命を狙っている、そしてカムやアムド地方の大きな街は中国に征服されたら
しい”という噂をね」
「私たちは直ぐに、彼らが持込み売りさばいていたチベットの宝は、彼らがよその土
地のチベット人から略奪した盗品だと分った。それに、私たちの心の拠り所であるダ
ライラマ法王が命の危険にさらされていることを聞いて、皆嘆き悲しみ、中国人に対
する怒りが湧いてきたんだよ。村人も皆立ち上がって、真っ向から抵抗するようになっ
たけど、数の上でもとても太刀打ち出来なくて、若い力のある多くの男たちはゲリラ
となって、絶望的な戦いを始めたよ。私たち女は持っている食料を彼らのために山々
に隠したんだよ」
「すると中国人は今までの態度をひるがえして、軍隊で村を完全に包囲し、僅かな食
料は完全に彼等の物となり、中国に従わない者は容赦なく投獄されたり殺されたりし
たのさ」
チベットは現在中国の領土下にありますが、中国共産党の侵略以前は一度も他国の支配を受けたことがなく、れっきとした独立国家でした。1951年頃から中国共産党
は「解放」という名の下に、仏教の国であるチベットの多くの僧院を破壊し、宗教的
なものを壊滅させるために多くの力を注ぎました。そしてチベットの土地は中国の一
部と半強制的に分配されたのです。1959年には、チベットの首都ラサで大規模な
暴動が起こり、最高指導者ダライラマは諸外国の助けを求めるためにインドへ亡命し
ました。そして多くのチベット人もダライラマの後を追って亡命したのです。
アマ・タシは淡々と話し続けます。
「“ダライラマ法王やその他の高僧達も皆インドへ亡命した”というニュースを聞いたときの哀しみは、例えようもないほどだった。一体、私たちは前世でどんな悪い行いをしたというのでしょう。絶望して、皆この過酷な環境に耐える力を無くしてしまった」
「すでに村の人口の何倍もの軍隊がいたので、その目を逃れてインドへ脱出すること
は出来ず、それでも闇にまみれて逃げようとする者は多かったけど、見つかった者は容赦なく殺されてしまった」「大勢の同胞の亡骸にはロープが巻かれ、毎日朝になる
と目の前に流れる大河に放り込まれていった」
「村では食糧事情がますます悪化し、沢山の子供たちが餓死した。残された者は殆ど
皆が強制労働を課せられ、そこから逃れることも出来ずに、自ら毒草を食べて自殺す
る者も増え始めていた。こんなふうにチベットの状況は悪化するばかり。私の3人の
子供も餓死したのさ・・・」
「その頃の私たちは一日に一回だけのツァンパしか与えられず、重労働を課せられて
いた。そんな中で身内も次々と倒れ、やがて私自身も重い病にかかり、このままでは
死んでしまうと思い意を決して3日かけて叔父の元へと逃げた。でもすぐに逃走した
ことが軍の方に知れてしまい、結局自分の兄と母は殺され、そして7日以内に私が刑
務所へ出頭しなければ、家族は皆殺しにするという恐ろしい通達を受けたんだよ。私
は深い哀しみの中で、もうそれ以上の惨劇を避けるため、まだ病気は治っていなかっ
たけれど村へ戻ったのさ」
「僧侶をしていた年老いた叔父テンバ・ツェリンが、刑務所で過酷な労働のために重
い病にかかり、死を間近に控えていたある日、私にこう告げた。“数日後の早朝に大
きな虹が出たら私は死ぬだろう。死んだら土葬にしてくれ。頼んだぞ”。亡くなる直
前の何日間は、私は元気を付けてもらうために当時は貴重だったミルクやヨーグルト
を手に監視の目を盗んで見舞った」
「でも数日後、叔父が予告したように自ら意識を転化し、90才のラマは亡くなって
しまった。私は身内が亡くなった事を理由に強制労働収容所から許可を得て、人目に
付かない夜遅くに、叔父の遺体を背に山の中へ入っていった。途中手を貸して欲しい
と何人かのチベット人に助けを求めたけど、ラマに触ると殺されるので誰一人として
手を差伸べる者はいなかった。真っ暗な新月の夜、女一人では大変過酷な作業で、途
中何度も転びながら、それでも明け方には土葬場へ到着して、体の大きかった叔父が
入るほどの穴を作るのは容易ではなかったけれど、言われたとおりに掘り続け、よう
やく日が暮れかけた頃にその穴は完成した」
「叔父は今まで私のことを愛してくれて、多くのことを教えてくれた尊い恩人。今や
自分の身内の多くが殺され、生きる勇気も無く、それでも自分はこの過酷な状況の中
を生きなければならない。この世に自分一人が置き去りにされたくない気持ちから、
私はなかなか叔父の亡骸を埋める事が出来ずにいた。でも完全に埋めてしまわずにい
れば中国人に見つかって何をされるか分からない。だから勇気を出して全てを土で覆
ったのさ。私はその場から離れられずに泣いていたら、やがて兄が私を見つけに来て
くれて、一緒に家に帰った。そしてすぐにこの事を聞きつけた中国人が私を捕らえに
やって来たけど、家族の者がそっと私を逃がしてくれて、私は遠くにいる親戚の元へ
行ったよ。でもラマの埋葬を理由に兄は刑務所に送られ、二ヶ月後に死刑になってし
まった。兄はね、最後まで私のことをかばったんだよ・・・」

アマ・タシは終始感情を表に出さずに話し続けました。そんな余裕が無かったのかも知れません。あるいは、どうしても忘れることが出来ない過去を、感情を殺すことによってのみ支えているせいかもしれません。それは多分生き続けるために。
話し終えると彼女は、いつもの無邪気な笑顔で私によく聴かせてくれる歌を歌ってくれました。
サン(お香)を焚けば、煙が祈りを届ける
サンを焚けば、神々が臭いを嗅ぎつけやってくる
トン(法螺貝)を吹けば、法は響き渡り、あまねく広まる
ヤクの乳を搾れば、女達に乳を恵んでくれる |